会員皆様の投稿記事

~同窓会ホームページ・個人投稿原稿に関するお知らせ~
日頃より三商同窓会ホームページの閲覧・ご投稿ありがとうございます。
理事会において決まりました投稿規程として、近年携帯からスマホへの移行が多くなり
小さなスマホを利用してホームページを閲覧される方が増えておりますので
文章を読みやすいよう一回の記事は<1000文字程度>とさせていただきます。
それ以上の文字数のご投稿の場合は次号に分けて連載になります。ご了承ください。

木鐸 第七号 ラジオ体操                       19期 細田安治    2024年4月投稿

NPO法人東京都ラジオ体操連盟による第45回ラジオ体操大会が行われた。「ラジオ体操のブロンズ像」が建設されその記念日として今年で45回目となる大会である。筆者も深川ラジオ体操会の一員として、またラジオ体操大好き人間として参加した。

写真1ラジオ体操ブロンズ像

写真2会場いっぱいにうずめたラジオ体操元気者

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
◇海外からの参加者

会場には、都内の各会場をはじめ、はるばる岩手県など遠方からの参加もあり、老若男女の元気者が参加した。今年はアメリカからフロリダ大学の学生さんが、日本の文化を体験学習として、朝のラジオ体操に参加し大いに賑わった。

学生さんたちは、初めてふれる日本のラジオ体操を楽しそうにそして一生懸命体を動かしていた。日本のラジオ体操が健康づくりとして、海外にも普及することは、大変喜ばしいことである。このような参加者が継続して参加してもらうことが大変重要なことである。

◇体操の指導
体操の指導はNHKのテレビ・ラジオ体操指導者の鈴木大輔先生、実技は舘野伶奈さんが登壇し楽しく元気に体操をリードいやがうえにも会場は盛り上がった。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
◇佐藤理事長挨拶

・ラジオ体操は、お年寄りが減り新規の参加者が増えないので全体的に減少している。少子高齢化とともに、社会的現象として商店街や中小企業製造業関係の工場の減少が続いている。

写真3NPO法人東京都ラジオ体操連盟の旗

◇ラジオ体操活動を進めるにはあたり、
・ラジオ体操が出来る会場があること
・ラジオ体操をお世話する人がいることが必要である。
・ラジオ体操は、体操する人と、お世話する人は別の人である。
・現状はお世話する人が減っている。これが大きな問題である。
・各会場の役員は、最重要課題としてラジオ体操をお世話する人を増や活動をお願いする。
・関係者の増員活動をお願いする」と締めくくった。お世話する人を増やさねばならない。

写真4挨拶する佐藤理事長

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
◇鈴木大輔先生からラジオ体操の準備運動の実地研修が行われた。これ非常に効果的準備運動である。余談だが、深川会場でも是非取り入れたいが、・・・。活動が低調になってきている。

尚、NPO法人東京都ラジオ体操連盟理事長佐藤幸一氏は嬉しいことに都立三商の出身である。このことは大変嬉しい事であり、三商の誇りであることを合わせて報告する。完

戯言&独言42                                          21期 髙野 昇        2024年4月投稿

タイトル2 食べ方いろいろ・今とあの頃
いちご いちごは今も昔も果物(あの頃は果物を水菓子と言っていた)の華でありバナナとともに双璧であった。特にバナナは病気見舞いの定番だった。子供から成人に架かる頃は隣の八百屋の小父さんが「今日はいちごが安いよ」と声を掛けてくれて家族7人が2箱位を買い求めたいちごを食していた。いちごは足が早く傷みやすく八百屋に冷蔵庫など無く売れ残りそうになると値切り販売をしていたのだろう我が家は商売柄冷蔵庫があり、当時からいちごは木箱にはいっていた。食べ方は単純、我が家で売っている白砂糖をたっぷりかけ手づかみで食べる。その後”練乳”なるものが発売されこれをいちごにかければ最高の味、洒落たいちご用のスプーン(写真)等が売り出されお洒落な食べ方に変わっていった。私は今もこのたべかたが好き不揃いの安いイチゴの愛好者である。

キュウリ 縦四半分に切ったキュウリに塩を掛けて食べる、正に夏の味であったが今は一年中季節に関係なく売られ季節感が無くなった。その後味噌をつけて食べる(写真)のを憶え今もビールの一番安易なつまみである。食べる野菜で季節を感じて食していたあの頃が懐かしい。 中学生の頃市川橋の河川敷きにあった勝手に栽培されていた野菜畑になっていたキュウリを拝借、江戸川で水浴びのあと手持ちの塩でたべたあの味、あの青臭さがいい思い出である。

豆腐と納豆 豆腐は今も昔も変わらない食べ方、冬は湯豆腐、夏は冷奴、残念なのは街中のお豆腐屋さんが姿を消してしまったこと店それぞれにニガリの配分、搾り具合の加減で味が異なっていたがいまはスーパー、コンビニ同系列なら同じ味、マーボ豆腐など知らなかった世代の我々には少し寂しい。生姜はそのまま入れるよりタップリ絞った汁を入れたほうが美味しいと思う。絞りかすは翌日の味噌汁に投入する。納豆の食べ方も相変わらず、ねぎ、辛子はなにがなんでもの添加物、私は時折塩で食べたり、味噌、マヨネーズを添加してみたりしている。東北地方では砂糖を入れるとか、その味は想像できない。

みそまめ ずーっと以前は朝早く少年が「なっとう・味噌豆…・」と売り歩いていた風景、その味噌豆とは茹でた大豆を冷やしそのまま売る、当時としては酒のつまみとしては安易で安く、わたしは今もビールのつまみとして愛着がありピリッとからしを添えて醤油をかけて頂いている。便利な事に何処のスーパーでもコンビニの店頭で売っている。家庭で作るとどうしても豆が二つ割れしてしまので市販のパック詰めが便利、野菜の煮物に、カレーに入れたり現在は多様な食し方があり便利な素材だ。

にぎりめし 今の人達はにぎりめしなどとは言っていないで”おむすび”。コンビニの売上のトップクラスでその種類も千差万別で梅干しからカルビまで等色々、かつては遠足等の時はお袋の握ったまん丸の握り飯、中味は良くて昆布の佃煮か梅干し一個、塩か味噌がぬってあり海苔などは巻いてない。水筒の水をのんでそれが当たり前の遠足弁当だった。それを竹の皮に包み(竹の皮は八百屋で売っていた)新聞紙に包んで雑納(軍隊のお下がり)にいれたっぷりの水筒の水を飲んでそれがたのしみで遠足に参加していた。そんな弁当も持たすことも出来ず遠足を不参加した学友もいた時代だった。今のコンビにおにぎりは全て三角ですわりがいい。そんなコンビニ結びを包丁で二等分してみておどろいた。明太子の中味が小匙四半分しか入ってない、これは詐欺だなと家内と話た。お袋が握った丸いむすび.我が家で時折作る握り飯はいつもまん丸で中味は梅干しが定番である。


~仲田元昭さん(29期)に誘われて~徳川将軍家ゆかりの船橋市寺町地区を歩く
  28期 若月健司    2024年4月投稿 

令和6年4月
28期 若月健司

~仲田元昭さん(29期)に誘われて~
徳川将軍家ゆかりの船橋市寺町地区を歩く

去る4月2日(火)に仲田元昭さんから誘われていた船橋市を初めて訪れました。仲田さんとは三商同窓会のメルマガでお互いが神社仏閣などのボランティアガイドを行っていることから知り合ったのです。当日は午前10時にJR船橋駅で落ち合い、仲田さん手作りのガイドマップを手にスタートしました。主な訪問場所は浄勝寺・不動院・船橋大神宮・常磐神社・燈明台・海老川橋・船橋御殿跡東照宮・

森田呉服店と煎餅店などでした。船橋市環境協会認証ふるさと案内マイスターの仲田さんのガイドは懇切丁寧で日頃の研鑚が窺われます。途中での昼食は予約済みの中華料理店で平日にもかかわらず満席でした。そこで在校時の思い出話やこれまでの活動についての情報交換を行い楽しい時間を過ごしました。

船橋市は潮干狩りの出来る古い普通の街とのイメージでしたが、寺町の存在や海老川の影響や徳川氏との強いつながりあることを知って歴史のある立派な街との印象に変わりました。道路もきれいに整備されており歩きやすく、訪問先の看板も分かりやすく読みやすく管理されており文化財保護の精神が行き届いていると感じました。

私も江戸川区教育委員会主管の「文化財・郷土資料室ボランティアの会」に所属して春秋の「史跡ウオーク」でガイドを務めています。違う組織ですから比較できませんが今回の事で大いに参考になったこともあります。これからの活動に活かせていきたいと思います。また、同窓生同士の中での情報不足もあったとも感じます。もっと若い頃から同窓生の趣味などの情報があれば同窓会での交流が活発になったかも知れません。在校時代は1学年違いとはいえ顔も知らなかった仲田さんとメルマガを通して知り合ったことは、傘寿を超えた現在、年賀状を止める方や黄泉の国に行かれる方が増える中で新しい知人が出来たことは誠に楽しいことです。

以上。


41 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(12)伝統文化(5)―奉納相撲―
29期 仲田元昭   2024年4月投稿

同窓生の皆様へ三商祭プログラム発掘のお願い 29期 仲田元昭   2024年4月投稿

【同窓会事務局より】
この度、29期生の仲田元昭さんが母校都立三商の思い出の記念品を探しております。
大変貴重な第一回(昭和32年)の三商祭プログラムですので難しいとは思いますが、是非ご協力頂きたくお願い申し上げます。

尚皆様が所有されている三商関連の品物がありましたら、同窓会ホームページのアーカイブに残しませんか?寄贈、貸し出しどちらでも受付けておりますので、同窓会事務局まで一度ご相談いただければ幸いです。
三商同窓会メールアドレス:info@tcsaa.jp

プログラム発掘1
プログラム発掘2

今村直人校長先生の思い出                       19期 細田安治    2024年3月投稿

木鐸会 生き残り
細田安治

◇三商100周年まであと4
我が母校三商も令和10年(2008年)に100周年を迎える。
筆者の属する19期琴冨貴会(木鐸会の延長)は92歳から89歳まで3年の差があるものが集まっている。戦後の混乱期で、入学遅れなどが出たため変則的なになっている。当時の今村直人校長が、戦後の混乱期に「三商で勉強しようと入学を希望していたものは可能な限り入学させよう」と温かいお気持ちにより入学することが出来た、その為「同学年年齢差3年開き」という変則な学年が出来てしまったが今思うと、今村校長の「教育は国民が平等に受けることが出来る権利」との信念に基づいてなされたものである。今村校長の信念のお陰様でいまの我々19期会が存在している。と思う次第である。このことは19期会の会合で年齢の話、入学時の話が出るたびに話題になっている。そこで、偉人今村直人先生の信念をご紹介したい。写真-1三商の玄関にある今村直人校長先生の胸像

◇同窓会報第5919期特集号より
2021年に同窓会報第59号「19期特集号」を、三商会、同窓会ほか皆様のご指導、ご好意により発行することが出来ました。19期会一同心より感謝申し上げる次第でございます。有難うございました。お陰様で、母校三商を中心とした19期同窓生の「きずな」を益々強めることが出来ました。さて、今村校長の話に戻れば、第59号の10ページに大関守のとっておき話をからお人柄に触れてみたい。。

 ◇大関守のとっておき話 (原文の通り)
自分の受験番号はいまでもはっきり覚えている。何故かと言えば、三商に入学願書を出して、正面玄関から生徒通門途中の塀側を歩いていたら、(当時、2月中旬の午後)、後ろから声をかけられた。「君は三商を受験したのか」それで「君の受験番号は何番」と聞かれた。いったいこの人はどんな人か?なぜ聞くのか?と不思議に思ったが、聞かれるままに私の受験番号は「245番」です。と答えた。「245番か、随分遅い番号だな。だが心配ない。全員合格できる」と言われた。この人は一体誰だろう。何故受験番号を聞き、全員合格、等と言われたのかと不思議だった。実はこの人は三商の校長今村直人先生で、荻窪の自宅へ帰宅の途中、たまたま声をかけてくれたのではないか。びっくりしたが、このことだけでも、今村直人先生は温情溢れる立派な人物であったのではないか。この一言で願書受付番号は245番とはっきり記憶した。尚19期中学の入学人数は一組50人で6クラス300人ぐらいだった。

◇今村直人校長先生の受験生に対する強い思い
誰でも知っている有名な話だが、今村先生への感謝の気持ちを込めてここに書きます。戦後の混乱期に三商を希望するのは優秀な子供達だろう。「よくぞ、三商を選んでくれた。全員合格させよう」。このことは、今村校長独自の強い思いであった。このような立派な校長がいる三商へ入学し、勉強できたことが幸せだった。写真-2大関 守経営の蕎麦店・大関庵で第一回19期会 白い板前姿は大関守

◇以上が大関守君の今村校長先生への想いである。19期生が90歳を超え91歳となった。今年の三商の卒業生も91期と聞いた。何と表現したらよいか「数字が逆転する誠に珍しい現象」「それだけ長生き出来た」という事か。いずれにしてもこんな嬉しいことはない。19世の実感である。それもこれも、三商で学び今村校長先生を始め諸先生方、同窓会のご指導、そして19期の旧友たちが、お互いに励まし合い切磋琢磨したことのお陰様と心得ている。級友もにとこの調子を続け、まず三商100年を多数の出席で祝い、更に100歳を超えるまで健康で元気で頑張れると確信した次第でございます。19期一同深い感謝の念をささげてこの稿を閉じる。完

戯言&独言41                                          21期 髙野 昇        2024年3月投稿

政治 乱れっぱなしの昨今の政府、与党、裏金の有無を問われ「しらなかった、存じなっかた」とだれもが共通の答えで逃げる。一般国民であれば当然脱税に等しい金銭の流れに税務署は厳しい重税を課すのに国会議員には優しい。パー券(1件20000円)の売り過ぎた分はその会派や議員にキックバック、それが裏金だとおもうが当事者達はその場逃れの返答ばかり。時間ばかりが流れ有耶無耶にする気配が首相の答弁に見え隠れしている。与党議員は立法はどうでもよい、その前に金儲けの出納帳を議会場の机に置いているのか。最初の大元締め森元総理の証人喚問に国民として僅かな期待と野党の厳しい追求を期待したい。場逃れの返答ばかり。時間ばかりが流れ有耶無耶にする気配が首相の答弁に見え隠れしている。与党議員は立法はどうでもよい、その前に金儲けの出納帳を議会場の机に置いているのか。最初の大元締め森元総理の証人喚問に国民として僅かな期待と野党の厳しい追求を期待したい。

快い若者 のドジャーズ大谷選手の奥さんが突然にPC上にあらわれビックリし.た。何とも言えぬ清々しさ、明朗さ、普通の人らしさ、いかにも大谷選手が選んだそれらしい美人。スッピンであの綺麗さは私生活でも変わらぬ筈。そのままで生涯添い遂げて欲しい。記者の「入籍は何時でしたか」のバカな質問に〖言う必要があるんですか」の返事も素晴らしいく、大きなお世話そのもの。大谷夫妻に幸多かれ。通訳の水原一平さんご夫婦もきれいきれい。

大相撲 これが読まれる頃は大阪場所がおわっているか。横綱、大関の活力無しはまず照ノ富士の引退もありかも、あの両足の膝のサポーターも以前からかなり厳重で中に板状なものが入っているらしい。今場所は特に腰に力が無く低く押されてしまうと反撃ができずに寄り切られしまっている。それでも関脇陣、前頭上位の面々の奮闘、活躍は素晴しい。阿炎、熱海冨士、大の里、宇良、若元春など期待度は高い。大関貴景勝の土俵を下がる際の一礼はけしからん。首が痛いといっているが一礼は首でするのではなく腰を何度かに前に倒してするのが礼儀、豊真将(錣山部屋)の端麗で礼儀ただしさが懐かしい。若元春の兄、十両の若隆景の復帰を目指す奮闘に目が離せない。この二人の祖父はかっての立浪部屋の若葉山、足取りの名人と言われていた。歴代最多の優勝回数を誇った宮城野部屋親方元白鵬、部屋内暴力事件をめぐり「師匠としての素質、自覚が大きく欠けている」として協会は懲戒処分を発した。どこの企業、組織はかなり以前からコンプライス遵守、スポーツ界等では今もプロ・高校野球その他の事件が起こればスポーツ紙の見出しを賑わせる。今回の事件では暴力力士北青鵬を高卒で取得するには多分な労力と金銭を使い入門させたの協会内の噂もあるようだ。力士の数年後に期待し「金の成る木」との判断で全ての行動を把握しながら目をつむっていたのだろうか。理事を狙っていた親方は2階級降下、部屋の閉鎖も考えられる。

悩ましい”樽俎折衝そんそせっしょう)” 28期 若月健司    2024年3月投稿 

令和6年3月
28期 若月健司

悩ましい樽俎(そんそ)折衝(せっしょう)

現在、「三国志」第6巻(著者:宮城谷昌光 発行:文藝春秋)を読んでいますが、その特別付録の中に「樽俎折衝」という言葉があります。出典は中国春秋時代の斉の「晏子春秋」からとのことです。説明として「樽は酒だるで、俎はまないたである。外国の使者と酒を飲み、料理を食べている場から出ないで、外国と交渉して国際紛争をおさめてしまう外交の名手とは、春秋時代の斉の晏子のことである」とあります。即ち、軍事的衝突を避けて、国威をしめす外交交渉のことを樽俎折衝というのです。

中国春秋時代といえば皇帝のガバナンスがきかず、群雄割拠の結果各地で軍事紛争が起き戦乱の世となったのです。そのような軍事紛争の中で「樽俎折衝」を行う人物が尊ばれて歴史に残ったのでしょう。

その後、人類は第一次世界大戦・第二次世界大戦などを経て紛争はあるものの国連中心に一定の小康を保ってきたと思います。日本は日米安保条約の故か、曲がりながらも78年余平和を保って来ました。ところが昨今、台湾問題・北朝鮮のミサイル・ウクライナ紛争などの影響か軍事予算の増額が為されています。外交交渉には軍事力が必要という評論家もいます。その場合、各国が軍拡競争に走るでしょう。

国民に軍事費調達のための増税・徴兵制度承認などへの覚悟はあるでしょうか?しかし、現実の情勢は厳しく「樽俎折衝」は空想論と言われそうですが晏子のような人物はいないのでしょうか?

「三国志」第6巻はいよいよ三国に収れんする段階です。中原を支配して皇室を擁する曹操・南東方面を支配する孫権・西方面を支配する劉表を破る劉備に固まりそうです。「三顧の礼」で有名な劉備と諸葛亮孔明の結びつきが丁度始まったのです。これから佳境に入ります。 以上。

40 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(11)伝統文化(4)―水神祭―
 29期 仲田元昭   2024年3月投稿

三商で育てられ、三商を育てる <後編>47期評議員・三商教諭加藤 美喜雄    2024年3月投稿

配属先は三商に、でも…
1985年3月に採用先が三商に決まりました。しかし三商は三商でも定時制課程、在職した8年間は授業が始まる17時台に、定時制職員室の窓から下校する全日制の生徒の後姿を、毎日指を咥えて見ていました。

定時制では、かけ算九九がまともに言えない者、足し引き算を指で計算しようとする者、そんな生徒の相手もしなければならず、自分が描いていた珠算の指導とは大違いでした。それでも、生徒の中には上級取得者も少なからずおり、定時制の珠算全国大会では、団体・個人で入賞するなど、何とか結果を残すことができました。今にして思えば、私と一緒に着任された校長:谷幸夫先生が珠算界の重鎮であり、珠算教育のよき理解者であったことがとても大きかったです。

三商定時制では2年目に1学年担任となり、4年後に卒業生を出した後に全日制の学校に異動するはずでした。しかし、4年生の卒業を間近にしていた1990年1月、三商の先輩で在学時の恩師・同僚でもあった渡辺勝彦先生の逝去により珠算指導者が私一人となり、全日制への異動は立ち消え、全日制に異動できたのは、3年後の1993年4月でした。

全日制過程に異動、珠算部の顧問として全国大会出場を目指す
1993年に四谷商(現稔ヶ丘)に着任、一商・五商・芝商・荒川商(現小台橋)・四商と渡り歩きました。都立の商業科は世界が狭く『加藤=珠算』という構図が出来上がっていたようで、勤務した全ての学校で珠算部顧問を任されました。なかには珠算特別推薦枠を設け『全国大会出場』を目標に掲げていた学校もあり、正顧問なら最低でも「全商が主催する全国高等学校珠算競技大会東京都予選で上位入賞し、全国大会出場権を取らなければならない。」という宿命を背負わされ、ものすごいプレッシャーを感じた事もありましたが、上位段位取得者をはじめとする優秀な部員たちに恵まれたおかげで、四谷商・一商・五商・芝商では全国大会出場を果たし、個人での入賞者を出すこともできました。平成初期までは珠算の全盛期で珠算中心の指導を行ってきましたが、「近い将来に商業計算が珠算から電卓に移行する。」これが21世紀に入ると年ごとに現実味を帯びるようになっていきました。そして、商業科の必修科目から『珠算』が消滅し、私にとって新たな選択を迫られることになるなど、当時はまったく予想していませんでした。

珠算から電卓・PC主流の時代へ、日商簿記1級にチャレンジ
やがて、時代は昭和から平成へ、計算用具も電卓・PCが主流となり、珠算を指導する機会は徐々になくなっていきました。それでも、三商定時制に在職中に、全日制の商業科の先生から「加藤さん、1991年4月に会計科ができるんだよ。うち以外でも会計科を置く学校が出てくるから、定時制に勤務している間に日商簿記1級(2級は大学時代に取得済み)を勉強しておいた方がいいよ。あなたはこれからの人だし、チャレンジしてみてはどうだい。」とのアドバイスを受け、3年6か月、7回目の受験で日商簿記1級に合格しました。税理士を目指すわけでもないのに「こんな勉強をする必要があるのか?」と思いながら始めた日商簿記1級の勉強でしたが、実際に合格してみると満足感でいっぱいでした。

残念ながら学科改変により『ビジネス科』に統一されたことで、日商簿記1級を指導する機会はほとんどありませんが、「日商簿記1級を取得したい。」とアドバイスを受けに来る生徒がおり、私の実体験により日商簿記検定1級がどれほど難関な資格試験かを話すことができ、合格までに費やした時間は無駄ではなかったと、今でもそう思っております。

母校三商に着任、今やろうとしていること
2022年4月、ついに母校三商全日制に着任となりました。三商全日制の一員となるのは在学時以来、実に42年ぶりのことです。校舎(1983年の教育実習時はすでに現校舎)・制服・学校周辺の街並み(特に豊洲)など、私が在学した当時と比べると大きな変化を遂げており、昔と変わっていないのは校章と校歌ぐらいでしょうか。

私が生徒として過ごした3年間は充実した毎日で、体育祭・三商祭とも活気に満ち溢れていました。特に三商祭のフィナーレを飾る応援団の演舞と応援歌の大合唱は、青春の1ページとして今も記憶に残っています。今三商にいて寂しいと感じるのは、応援団が存在しておらず、ほとんどの生徒・教職員が応援歌を知らないという事実です。

昨年の三商祭では、私自らリーダーとなり、1日限りの応援団復活で3年生2人を従えてのステージ公演を行なったところ概ね好評で、「応援団員をやりたい」という生徒も現れており、次年度も継続して応援団の演舞を行う確約が取れました。体育祭・三商祭では、昨年を上回るスケールで応援団の演舞を披露したいと考えております。

おわりに
私がこの先三商に何年いられるかわかりませんが、三商在職中は生徒全員が立派な大人として社会に貢献できるよう、教科・生活面で指導するなど学校運営はもちろん、100周年に向けた完全なる応援団の復活と全校生徒による校歌・応援歌の大合唱を実現できるよう努力してまいります。

同窓生のみなさま、よろしくご協力・ご声援のほどお願い申し上げます。

2024年2月吉日
都立三商同窓会第47期評議員
加藤 美喜雄(都立三商全日制教諭)

松坂大輔トークショー                       19期 細田安治    2024年2月投稿

20240205
木鐸会 生き残り
細田安治

松坂大輔トークショー

松坂大輔

平成の怪物「松坂大輔」のトークショーが新木場木材会館だーホールで開催された。写真-1松坂大輔

松坂大輔

◇野球との出会い
小学3年生で江東区のリトルリーグ東陽フェニックスに入団初日、代打ホームランで首位を驚かせた。

◇中学時代
東陽中学校3年の時に全日本代表に選ばれた。チームメートに誘われ横浜高校への進学を決める。

◇横浜高校時代、試合が楽しい
「練習量が多く試合の日は「(らく)」横浜高校で試合は楽しい、「だから野球が好きだ」を教えられた。

◇サボリの松
「試合が楽しい」練習嫌い」猛練習が基本にあり、試合は「楽できる」彼なりの表現ではないだろうか。
・練習が第一
野球選手にとって野球選手に限らずすべてのスポーツ選手にとって「練習が最も大事な基本」である。

◇試合が好き、野球が好き

◇サボ松奮起3年生時に球速150 km/h超を記録は甲子園で初めて平成の怪物」注目される。

◇歴史に残る名勝負

3年のとき、1998第70高等学校野球大会春の選抜では他校を寄せ付けず優勝する。

第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝でPL学園高校との対戦は歴史に残る名勝負だった。9回まで55で延長戦に入り11661797PL学園を下した。松坂はに延長17長丁場の試合250球を投げ完投勝利した。

・準決勝で四国の名門明徳義塾と対戦8回まで62とリードされていたが8回裏2点を取り、64、と差を縮め9回表松坂登板で横浜高校選手の闘志に火が付き9回裏逆転し76劇的な勝利をもぎ取った。

・決勝の京都成章戦で松坂登板なんとノーヒットノーランで抑え優勝。念願の春夏連覇を達成。

1997年秋季県大会ブロック予選からかながわ・ゆめ国体決勝までの公式戦44連勝を記録した。

◇松坂のマネジメント

渡辺元智監督と野球部長の小倉清一郎氏である。教わり大切にしている言葉。「目標がその日を支配する」。小さな目標で満足すればそこまでだ。目標は大きく持て、そして、その日の目標を言葉に出せ、言葉が決意となる。言葉に出すことが目標に近づくことだ。言葉を大切にせよ

◇プロでメジャーでの活躍

西武での八年間10860敗奪三振1556と驚異的な成績をあげ、メジャーレッドソックスに入団したレッドソックスの65037敗、メッツの2年間66敗合計5643敗、メジャー通算5643敗、奪三振609の好成績であった。日米通算の成績は170108敗奪三振2130防御率3.53の好成績である。WORLD BASEBALL CLASSICでは。60敗防御率1.95 2006年、2009年のMVPに輝く。

・自信が確信形がむしゃらに突き進んだ。1999年西武に入団プロ入りした。プロ1年目、プロでやっていけると、確信した場面は忘れられない。片岡選手とイチロー選手を速球で三振に討ち取った。この時からプロでやっていける自信が確信になった。「よし行けるところまで行くぞ」がむしゃらに突っ走った

◇野球を楽しむ試合で投げることが楽しい。

◇プロ1年目のキャンプ、かならずローテーション入りを果たす。と決意通り16勝とゴールデングローブ賞を。2年目14勝、3年目15勝で沢村賞を。自分は、「勝ちに拘り最後まで投げ切る」。先発完投型で最後まで責任を持ってやりぬくことだが、その通りやりぬいた。

◇メジャーレッドソックスで15勝、18勝、WBC優勝

データで教えられた。日本とメジャーの違いは、データ重視、日本は監督コーチが細かく指導をするが、レッドソックスはデーター重視GMの指示通りに動く、データ重視の為、従わざるを得ない。必ず勝つ投手として、2006年決勝戦に勝ち投手になった。ところが、アテネで「肝心なところで勝てない投手」のレッテルを張られてしまったが、レッテルを張られて気が付いた。そうだ、ここで「落ち込まず、ふてくされず、ワクワクしろ。楽しめ、嬉しがれば結果はついて来る」を実行した。楽しんで投げ、次のオリンピック雪辱を果たした。プレッシャー対策は兎に角緊張せずワクワクしながら楽しむことだ。

猛練習が試合を楽しくする。

日々厳しい練習、横浜高校練習量が多いのは、試合の方が楽、休める。ずっと試合をやっていてほしい。だから試合が楽しい。なるほどこれか、解った。高校時代の経験させて貰ったことが、オリンピックで負けた時でも、次で取り戻せる。2015.16年コールされ声援があった。予想していたことが起きた。小学校時代も国際試合も同じことだ。ここで抑えればコールされる。カッコいい。この例はイチロー選手にも当てはまる。イチローもWBCの決勝戦で一打逆転のチャンスに登場し見事逆転打を放った、試合後のインタビューで言葉は、松坂大輔と全く同じ、「今ここで自分が打てば球場の人、テレビを視ている世界中の人から喝さいを浴びる。こんなうれしい事はない。絶対打つ」と思ってワクワクしながら打席に入り、見事打つことが出来喝さいを浴びた。こんなうれしい事はない。ワクワク楽しく打席に入ったからだ。この言葉と、松坂の言葉は全く一緒である。

◇今後の抱負は小学校時代に辰巳に野球場建設計画があったが、高素行道路の建設で取りやめになった。子供たちのために野球場を作りたい。

このトークショーは112日主催東京木場製材協同組合・共催東京木材問屋協同組合、東京原木協同組合によるものだ。松坂大輔は江東区出身、中学時代から名を上げ、横浜高校で球史に残る大活躍、鳴り物入りでプロ野球西武で大活躍、更にメジャーでも記録を残し平成の怪物とも称された。地元江東区の誇りとして区民から親しまれている。筆者は地元でありながら松坂と生で接する機会もなかったが、組合の企画により松坂の生の声に接することが出来た。組合の企画に感謝しつつこの筆をおく。完

戯言&独言40                                          21期 髙野 昇        2024年2月投稿

タイトル2 子供の頃のオールデイズ

▼星のながれに・・菊池章子ー小学生から中学生の頃にベーゴマがものすごく流行っていました。バケツの上に畳の切れはしか防水シート引きトントンと床たたいて、「せーの」で4人位で一斉に床にベーゴマを投入、そんな時なんとなんとなく口ずさんでいたのがこの曲、当時は”こんな女に誰がした”と言う曲名だったのが何時のまにか”星の流れに”に「変わっていた。後日談で知った事だが反米感情に気をもむGHQが曲名の変更を求めたとか。子供が唄う歌ではないが敗戦への思いと怒り、やるせない気持ちを娼婦として生きるしかない悲しみを切々と菊池章子が唄いあげていた。悲しいオールデイズです。♬飢えて今頃妹はどこに…一目会いたいお母さん…♬ 今の朝ドラ「ブギウギ」の中で”楽町のおミネ”として出てきた有楽町界隈の進駐軍相手の夜の女、実存だった「楽町のお時、ガード下のお時」さんがモデルなのがすぐにわかった。笠置シズ子の応援団であったのは当時の東京新聞{夕刊専門紙)で知っていた。

菅原都々子の歌…・彼女独特の声と哀愁漂うビブラート、今だ現役でTVで拝見できる高齢者でありながら、あの声でエレジー歌を唄わせたら実感そのまま。なんと言っても♫月がとっても青いから…・が大ヒット。田端義夫の前座から大出世となった。ひと時古賀政男の養女になっていたがレコード会社の関係で別れ♬連絡船の唄、江の島エレジー、月がとっても青いから…・など、あの哀愁漂う独特のビブラート、ちなみにNHKの紅白の第1回の放送(ラジオのみ)のTOPバッターだったそうです

岡晴夫…・通称〟”おかっぱる”で我々の年代では♬あこがれのハワイ航路だがわたしのオールデイズは♬会いたかったぜ。‥‥親友の作曲家上原げんと3年ぶりに同じレコード会社になった時の記念曲。

こんな経験は誰にでもあるはずで歌詞では故郷を離れて3年、心の友と再会と共に♬男同士で酒酌みかわす 街の場末の縄暖簾…・哀切と郷愁のメロディーは心を揺する。岡晴夫もこの歌の時はマドロスのではなく♬ァー東京の花売り娘…・雰囲気もなく良い歌謡曲だった。カラオケに友人と行くと必ず誰かが唄い出す曲です。

高峰秀子の銀座カンカン娘…・この映画も見たし服部良一のジャズナイズされたメロディーは生活が豊かでなかったこの時代、心だけを豊にしてくれた楽しい曲だった。映画ではデコちゃんはじめ灰田勝彦、笠置シズ子、岸井明、落語家の志ん生などでていた・歌詞の中でひとつグラスにストローが二本…・ここがいいですね。

最近の私の読書 28期 若月健司    2024年2月投稿 

令和6年2月
28期 若月健司

~最近の私の読書~

傘寿を超えて第三の人生(自由気まま)に入った最近の私の読書はまさに自由気ままです。読む時間もジャンルも場所も気の赴くままに読み始めます。従って一冊を読み終わらないうちに別の本を読み始めます。現在の読みかけ中の本は四冊です。

*「太陽を曳く馬」上巻~著者:高村薫 発行所:(株)新潮社 発行日:2009年7月25日 402頁
・合田雄一郎刑事が主人公の殺人事件の物語 「人はなぜ描き、なぜ殺すのか」を根底に、宗教・狂気・裁判・警察についてが描かれる。まだ上巻の三分の二ほどしか読んでいないが高村薫特有の粘っこい描き方に引き込まれる一方、そのしつこさ?に読んでいるとくたびれる。
・読む場所は私の部屋の机上です。この本は我が家の本棚の中からたまたま取り出したのがきっかけです。

*「葛西一族」~著者:河北新報社編集局 発行所:河北新報社 発行日:平成3年3月25日 217頁
・源頼朝の挙兵に味方した葛西清重がその功績により奥羽の北上川周辺(宮城県北部・岩手県南部)を治めることとなる。しかし、400年に渡って支配してきた葛西一族は豊臣秀吉の奥羽仕置きにより滅びた。この本は400年間の葛西一族の盛衰を細かく描いている。現在はその葛西一族内の自滅的な争い部分を読みかけ中である。葛西一族が支配したのが400年、滅んでから現在までがほぼ400年ということがきっかけで当地の郷土史家などの努力で発行したようです。
・私の住む江戸川区の歴史上の支配者として葛西清重の名前が必ず出て来ます。その話をある友人にしたところ「葛西一族」という本を持っていると言って貸してくれたのです。彼は某社の仙台支店に転勤となりこの本を手に入れたのです。借りた本ですからいずれ返さねばなりません。近所の図書館で調べたところ江戸川区の図書館には置いていない本です。
・読む場所は私の机上で「太陽を曳く馬」と交互に読んでいます。

*「三国志」第5巻~著者:宮城谷昌光 発行所:(株)文藝春秋 発行日:平成18年9月30日 354頁
・昨年12月のメルマガ「四知と裏金騒動」いう投稿文の中で「三国志読本」という本を読みかけ中ということでしたが、完読したところで宮城谷昌光氏の「三国志」を読みたくなりました。三国志というと魏(曹操)・蜀(劉備)・呉(孫権)の三国で蜀が中心となっている、いわゆる「三国志演義」の世界ですが、宮城谷昌光の「三国志」は後漢末期から始まり曹操が中心で動いています。現在は第5巻を読みかけ中ですが、宦官の三代目に当たる曹操がようやく檜舞台に登場する段階です。全12巻ですから先は長いのでじっくりと楽しみたいと思っています。登場人物が多く、地名も中国なので覚えにくく使われている漢字も難しく苦労します。
・読む場所は居間です。食事後とかちょっとの時間空きの時に読みます。図書館からの借入期間が二週間程ですので少々追いかけられる気分で読んでいます。

*「日本の先史時代」~著者:藤尾慎一郎 発行所:中央公論新社 発行日:2021年8月25日 299頁
・副題として「旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読み直す」ということですが、最初の頁の「時代とは何か」の言葉に惹かれ購入しました。一口に何々時代と言いますがその根拠も中身は複雑です。まだ第1章「土器の定着、人々の定住」ですが、根気よく読むつもりです。
・外出時のショルダーバック内に入れて電車の中や待ち時間中に読んでいます。

晴耕雨読の境地に入りたいと思いますが、目先の雑事に追われ本を読む時間が過ぎ去って行くようです。

以上。

39 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(10)伝統文化(3)―大仏追善供養―
 29期 仲田元昭   2024年2月投稿

三商で育てられ、三商を育てる <前編>47期評議員・三商教諭加藤 美喜雄    2024年2月投稿

三商との出会い
中学3年生当時の私は、多摩地区の吉祥寺(東京都武蔵野市)に在住していました。
もともと高卒で就職を考えていたので、高校は都立で普通科よりも在学中に資格を取得できる商業科志望だったのですが、一次入試で受験した学校が不合格となり、二次募集で人数枠が多く交通の便が良い三商を受験し合格、晴れて三商生の一員となりました。

(吉祥寺からJR中央緩行線・東京地下鉄東西線直通電車で門前仲町まで約40分)

三商に入学するまで下町には全く無縁だったので、先生や同級生からは「近くに五商や桜水商(現杉並総合)があるのに、なんでわざわざ三商に来たんだ?」と不思議に思われることが多かったです。『多摩っ子』の私にとって、三商というより下町の雰囲気に慣れていなかったため、入学後の3か月間はとても苦労しました。地方から上京して下町の相撲部屋に入門するお相撲さんの心境とはこういうものでしょうか。ただ、幸いなことに、1・2年時担任の大貫一博先生がかつて武蔵境(吉祥寺と同じ武蔵野市)に居住していて多摩地区の土地勘が詳しかったことと、同じクラスで仲の良い友人に出会えたことで、無事に三商を卒業することができましたが、三商で過ごした3年間は紆余曲折の連続でした。
※その後、大貫先生は1979年3月で東京都を退職、郷里の栃木県に戻り同年4月から商業科の教員に着任されました。私が東京都教員になってからも、公私にわたり何度かお会いしております。最後は校長まで上り詰めたそうです。

未経験の珠算でつまずく
私が三商に在学していた当時は、どこの商業高校にも1年の必修科目に『計算実務』(のち『計算事務』)という珠算を学ぶ科目が置かれていました。珠算の経験は小学生の頃に算数の授業で少し習った程度で、ほとんど素人同然のレベルでした。そんな調子でしたから、1年生の1学期中間考査の計算実務の答案は赤点すれすれ、その答案を親に見つかり、7月から半ば強制的に地元:吉祥寺の珠算塾に通うことになりました。
珠算塾ではほとんどが小中学生、一人の小学3年生男子から「お兄さん5級なの? 僕は3級だよ。」と散々馬鹿にされる始末、「このまま馬鹿にされっぱなしでいられるか。」と発奮し、入塾3か月後の10月に日商珠算検定3級を1回で合格、ここから私の人生は大きく変わることになりました。

※三商の先輩でもある岩瀬源先生・渡辺勝彦先生・柘植章宣先生にはたいへんお世話になりました。

珠算に目覚め大学に進学、心は珠算の指導者へ
珠算を本格的に始めてわずか3か月後に3級を取得、これがきっかけで1年生では中より下の成績が2年生になると上位に顔を出し、珠算には一層磨きがかかり三商在学中に日商珠算検定2級を取得、珠算に並行して簿記への関心も高まり、上級学校で会計の専門的知識を学び、珠算の指導者になりたいということになり、三商の商業科の先生から「大学に進学して教職課程を受講し、高校商業の教員免許を取得、東京都教員採用試験に合格したら珠算の指導者になれるぞ。」というアドバイスを受け、高卒の進路も就職から大学進学に路線変更、大学進学に反対だった親には「大卒でなければなれない進路を目指す。」「大卒後に就職したら、学費にかかったお金を10倍にして返す(実行しました)。」という約束で何とか説得させ、教員養成に実績があると聞かされていた拓殖大学(拓大)商学部に入学しました。
大学入学後も珠算は継続し大学2年で日商珠算検定1級に合格、自分では珠算はもう充分と思いましたが、「1級で終わりにしないで段位を目指してみろ。」との周囲からの後押しで、とりあえず初段までは目指そうと継続することにしました。

拓大を卒業後、1年間の就職浪人を経て、1985年度の東京都教員採用試験に合格、2月には日本珠算連盟段位認定試験珠算初段を取得、あとは採用先を待つだけでした。

※その後、珠算は4段まで、暗算は3段まで昇段しております。

2024年2月吉日
都立三商同窓会第47期評議員
加藤 美喜雄(都立三商全日制教諭)

戯言&独言39                                          21期 髙野 昇        2024年1月投稿

タイトル2 映画の中で奏でられたオールデイズ
戯言39

「荒野の決闘」でのヘンリー・フォンダと「わが愛しのクレメンタイン」、♬「オーマイダーリン…‥」、愛する人に思いが告げられない保安官ワイアット・アープのH・フォンダの演技とこの曲のテンポ、西部劇ではなく西部詩劇であってラストシーンの別れのシーンはこの曲にあわせたのか、この曲があってのラストシーンだったのかH・フォンダの素朴な演技とピッタリな名曲と思う。

「シェーン」のなかでBGM的に流れていたあの曲、アラン・ラッドの寡黙で冷静な役どころはかっては”大根”と言われていた俳優とは思えない。背景のワイオミングの山並みが開拓者を応援するかのごときこの緩やかでダイナミックなメロディーはビクター・ヤングらしいいつまでも記憶に残るオールデイズ。映画の邦題とレコードの曲名「遥かなる山の呼び声」も映画とレコードにピッタリ・ラストシーンで「カンバックシェーン…・グッバイシェーン」の声が山並みにこだまして主題曲が静かに流れ印象に残る。

他にも「鉄道員」、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」等…・日本映画では映画の内容と曲が有名になっていない。あえて私的に言わせてもらえれば原節子の「青い山脈」で彼女がスクリーンの表れるとながれていた「恋のアマリリス」だろうか。過去投稿したした分と重なる部分がありご容赦を。

戯言39-2

「ピクニック」という映画でウイリアム・ホールデンとキム・ノバグが主演して、流れ者の男と地元の娘の恋物語だったか。ストーリーは全くおぼえがない。街中でのパーティーでこの二人が踊る場面で流れていたのが「ムーングロー」というスローテンポのフォックストロット、ウッドベースの響きがやたらに印象的で、その後シングル盤のレコードも販売された。評論家の淀川長治さんも「これはホンモノのJAZZ、素晴らしい」とTVの中で言っていた。10年ほど前、あるJAZZ喫茶でリクエストしてみたがセクステッドのメンバー誰一人知っていなかった。プロが知らずとも私にとってはあのダンスの画面と曲のマッチング、いまも思い出す。

「第三の男」私が一押しの外国映画のNO1、アントン・カラスのツイターだけで最初からラストシーンまで流れ忘れられない名曲で、軍艦マーチ一色のパチンコ屋まで店内でながしていた事は以前この欄でかいたことがある。オーソン・ウェルズが暗闇からドアップで薄笑いを浮かべてスクリーンに現れる瞬間のツィターの強い調べ、ラストシーンの超ロングカットでの静かに流れていたのが同じ曲とは思えない演出と曲の遣い方に感動を覚えた作品と名曲であった。

~古典に学ぶ~「風姿花伝を通読する講座」を終えて 28期 若月健司    2024年1月投稿 

令和6年1 28期 若月健司

~古典に学ぶ~
「風姿花伝を通読する講座」を終えて

コロナ禍で外出自粛ニュースが流れていた令和3年(2021年)3月に私の所属する「NPO法人新現役ネット」で~古典を学ぶ~という講座の募集があり、運動不足の解消がてら申し込みました。月に1回の開催で受講料は準会員の私は1回あたり1500円です。場所はJR田町駅近くの同法人の事務局会議室です。時間は午前10時30分から12時までの90分です。講師は水野聡先生(古典翻訳家・能文社代表)。参加者数の平均はリアルが5名程度(男性2名女性3名)オンラインも5名程度(男性2名女性3名)で全てが高齢者です。

初回は4月6日(火)に始まり、テーマは「武士道の聖典”葉隠”を読む」でした。第2回のテーマは「はじめて見る能狂言」でした。第3回のテーマは「茶道・千利休 侘茶の世界」でした。そしてコロナ禍の休会を挟んでいよいよ9月21日(火)からテーマ「風姿花伝を通読する」の第1回がスタートしました。教本は各自が事前に用意した岩波文庫の「風姿花伝」(世阿弥著 野上豊一郎・西尾実校訂 昭和33年第1刷発行)です。因みに私が購入したのは第88刷発行で520円でした。「序」の部分から始まり小節ごとに講師の指名により1人が声を出して読み上げて終わると講師の解説が始まるのです。途中での質疑応答もあり、終了10分前に全体的な質疑応答時間も設けられました。以降、3回毎に区切りをつけて講座参加の意志確認が行われました。当初、この講座がいつまで続くのか不安もありましたが、「風姿花伝を通読する講座」が終了したのが令和5年11月21日(火)でした。1月や8月の休会を除いて通算24回開催されました。私は真面目に出席して皆勤賞でした。最終回に残ったのはリアルでは男性1名(私)と女性2名、オンラインは男性2名と女性2名でした。

*受講して印象に残ったこと
・「風姿花伝」とは室町時代の世阿弥が亡父観阿弥の遺訓を基に著した日本最古の能楽理論書であること。
・「風姿花伝」は一子相伝の秘伝書ゆえ観世家に深く秘蔵されていたが明治末に吉田東吾博士が「世阿弥十六部集」として発刊、昭和2年岩波文庫版「花伝書」が上梓されたことによりひろく一般読者の知ることとなった。
・「花」と「幽玄」が根本と言われるが言葉で表現するのが難しい。
・室町時代から今日まで日本の芸能として存在している理由も分かっているようで分からない。
・古典芸能に留まらず、美・芸術・人生についての示唆が言葉で綴られている。
・面をつけるより直面(ひためん)で演ずるのが難しい。

~強さとハリ 男女を超えて~ 能楽シテ方観世流 鵜澤光
・能は老若男女をそれらしく演じるのではなく、性をも取り払った所に存在する。
・能の声は高低ではなく強くハリのある声が必要である。声と息を離すこと。
・能は男性の体によって形作られたが女性の能役者はいる。しかし男女の区別はない。
・能の詞章を「謡」というが「歌」ではない。はじめに言葉があり情景描写や感情の抑揚が強くなって、やがて「節」になっている。従って能には男声女声の区別はない。
・「それらしさ」がないところから立ち上がるのが能です。老人でも腰をかがめない。
・能は声も演技も「型」を通す。単にリアルな演技でなく役者の生き方がリアルティをもって舞台に現れる。

そもそも私は現実の能舞台を観たことがない。この2年間にわたる講座を受講しただけでは能のほんの一部分に触っただけでしょう。この講座で得たものを確認すべく今年は能舞台を観る機会を作ろうと思います。

以上。

38 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(9)伝統文化(2)―梯子乗りと木遣り歌―      29期 仲田元昭   2024年1月投稿

百歳を超える                      19期 細田安治    2024年1月投稿

頌春
皆様にはつつがなく新年をお迎えのことと存じます。
俺たち19期生は揃って元気で新年を迎え、元日には電話会話の交換でお互いの健康を確認している。など元気者が不思議と多い。何故かと言えばその一つ、月一回19日の同期会に集まり気勢を上げている。

◇校歌・応援歌の合唱とフレフレ三商の連呼
12月19日は19期元気者10人、25期.26期同窓会の会長はじめ役員が参加し合計13人が集まった。12月3日には代々木スポーツセンターでコロナのため中断していた都立高校の校歌祭が行われた。この流れで同窓会の役員が参加し大いに盛り上げたことに19期として感謝申し上げます。校歌祭の詳細については三商会の会長よりご報告がありますのでここでは割愛します。尚この日の19期会では、校歌、応援歌を歌い、フレフレ三商を連呼し気勢を上げた。校歌応援歌を歌いフレフレ三商は、三商時代を思い出し実にいい気分である。

◇九が三つ巡る歳
さて、今年は19期生にとっていくつか19の数字が並ぶ目出度い歳だ。

・一つ目は、今年の誕生日が来る19期生は91歳を迎える。百歳まで一桁に迫っている。あと九年で百歳になることになる。昨年90歳の卒寿を過ぎた。卒寿とは、「目出度い壽を卒業」と読める。世間の風潮である。壽を卒業設らその先はないのか。では寂しい限りだ。そこで19期会では、「一旦卒業し新しい壽が始まる歳」と解釈し、新しい壽を目指している。

・二つ目は、その新しい壽とは何かと言えば、次は干支が8回巡ってくる96歳 が目標干支8巡り誠に目出度いことである。

・三っ目の19は、今年三商を卒業する生徒の卒業期と言えば91期と聞いた。学校で確かめたので間違いないことだ。

・三商での学習・同期生との交流・同窓会の応援

ざっと数えても9が三つが関係するこんな目出度い歳はない。ここまで元気でいられ先が見通すことのできる歳まで元気でいられるのは、何といっても、三商で学んだおかげでございます。在校中教えて頂いた先生方と19期の同期生との交流、同窓会の援助、と応援があったればこそと存じております。

◇次の目標

先ず4年後の95歳まで19期は一人の落後者もなく元気で進む。
次が前述の干支8廻りの酉歳の96歳までくれば
百歳まで僅かに4年となる。もうすぐだ。

・古きを訪ね 今を知り 今を知って未来を見通す。

木鐸会
19期生き残り
細田安治

新年の教訓                      19期 細田安治    2024年1月投稿

◇能登半島地震
新年を目出度くお迎えのことと存じます。今年は元日から自然災害と人為的災害で思いもよらぬ波乱の幕開けとなった。能登半島地震が発生しお正月の目出度い団欒を一瞬にして地獄のような状況に変えてしまった。上空からは見渡す限り木片と「がれきの山」となり、その上方々で火の手が上がっている凄まじく正に地獄である。この地獄は1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の状況と全く同じに見えた。
木造家屋を燃えやすいようにバラバラにし火付けし方々で火事を起こしている。地震とは自然による放火ではないか。と思う次第です。

怖さの譬(たとえ)に昔から、「地震,雷,火事、親父」とあるが、最近の親父は「あまり怖くない」もっと怖いのは、地震から発生する火事が一番怖い。もっと怖いのは津波だが、今回の地震では今のところ津波による大きな被害となっていない。これは不幸中の幸いかな。
被災地の方々にお見舞い申し上げるととともに一日も早い復興を願う次第です。

◇羽田空港衝突事故
次に1月2日の5時50分頃、滑走路に着陸した日航機と、滑走路上にいた海上保安庁の輸送機との信じられないような衝突事故が発生した。日航機の乗員乗客379人全員は脱出したが海保の乗務員5人は死亡した。
事故原因は現在調査中だが、この1月5日時点の調査では、海保機が管制塔の許可を得て滑走路に侵入した公算が高い。と報じられている。つまり日航機の着陸滑走路に管制官が進入の許可をだしたことが原因らしい。この事故は明らかに人災事故でありヒューマンエラーよるものである。
民間のテレビ局による日航機乗員乗客全員救出の模様が放映された。この報道によると、日航機はいついかなる時に起こる不測の事故に備え、機体が地上にある時の事故に備え、「90秒ルール」と称する訓練を実行している。万一の事故発生時に90秒で全員が脱出する訓練である。この訓練が功を奏し、今回の事故では一人の犠牲者も出さず、全員無事に脱出することが出来た。
人命を預かる乗務員たちはこのような厳しい訓練により今回の事故では一人の犠牲者も出さず全員を救助することが出来た。日航による厳しい訓練と、乗務員たちの人命を預かる使命感によるものと推察する。
一方同じ人命を預かる大きさでは、比較にならぬほどの責任ある立場の管制官に、ややすると気のゆるみがあったのではないか。もしそうだとすれば、あおりを食った形になり死亡した5人の海保の乗務員は全く浮かばれない。ひどい話となる。事故原因の徹底的な解明を求め、二度とこのようなヒューマンエラーが起きないようが願っている。完

2024年1月6日
細田安治

新年おめでとうございます                                          21期 髙野 昇        2024年1月投稿

今年も沢山の親類、縁者、友人、趣味友などから100通近い年賀状を戴きました。有難い事です。小学校2年生からの友人Ù君とは75年来のやり取りでその間、おたがいにLINEやメールも欠かしていません。年齢からして差し出す賀状が少なくなるのは当然です。例によって「本年を以て賀状を遠慮させて…・」が5通ありました。中には40歳代の人もいました。年賀はがきの発行枚数が年々減少しなにがなんでもスマホが手放せない若い人、めんどくさいと思う人、様々な背景の中、35期Y・A君からの賀状にはいつも感心しています。丁寧な手書きの文字、最近はじめたスマホに頼らずしっかりと書かれています・わたしも発送する賀状には相手の顔を思い浮かべ手書きの拙文を添えています。これは何十年来変わりません。この先何年出来るやら、「お前100までわしゃ99まで…」手作りの賀状を以て諸兄へのご挨拶申し上げます。

初めてのエイジシュート!!!                      28期 川村雅昭    2024年1月投稿

令和5年12月11日(月曜日)
プレーしたゴルフ場:佐倉カントリー倶楽部

当日は朝方は曇り、昼頃に晴れ間が出ましたが、途中から曇り、風が3メートル程度吹きました。
6か月ぶりのゴルフでしたので、練習不足でショットに不安がありました。
アウトコーススタートで、1番ホールから6番ホールまで連続ボギーでした。
7番のロングホールでパー、8番ショートホールのティショットはダフリましたが、アプローチショットはチップインバーディでした。
9番ホールのドライバーショットは220ヤード飛び、セカンドショットもナイスショットでした。楽々スコアはパーでした。
アウトコースのスコアは41でした。
この時点では、エイジシュートの意識はありませんでした。
インコースはドライバーショットが良くなり、スコアも14番ホールが終わった時点で、3オーバーでした。この時点で同伴者も気が付き、エイジシュートが可能だからガンバレと言われました。
そして、15番ミドルパー、16番ショートパー、17番ロングバーディ、18番ミドルボギー、グロス39で上がり、
アウト41:イン39=グロス80 (エイジシュート達成)

(この日の1番)
実は17番ホールのドライバーショットが若干ホローの風に乗り250ヤード飛びました。セカンドショットは5番ウッドで190ヤード飛び、アプローチショットは50度のウエッジでピン2メートル登りのラインにつけ、バーディパットは真っすぐのラインを入れました。(この日のベストショットが3打続いたのが一番うれしかったです。)

☆私は今年で、満81歳です。(昭和17年11月25日生)
来年の5月開催予定の興栄会ゴルフコンペに参加し、2回目のエイジシュートをチャレンジしたいと思っています。

私の新しいクラブは、ウッド系はブリジストンB2、アイアンはPINです。
パターはスコティッシュキャメロンピンタイプです。
ボールはBSーBXです。

37 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(8)伝統文化(1)―神楽―      29期 仲田元昭   2024年1月投稿

木鐸 第四号                      19期 細田安治    2023年12月投稿

◇代々木の森で

東京の高校生が集い、校歌、応援歌を歌い継ぎ青春の思い出から、若人は活力ある活動を、壮年は更なる活力を、老年の元気を永遠につなげよう。をスローガンとした東京校歌祭がコロナで3年余り中断されていたが、今年は18校の参加を得て12月3日代々木の森、国立オリンピック記念青少年総合センターで華々しく挙行した。

◇同窓会・現役生徒

多数の同窓会からの参加が期待されたが、残念ながら同窓会から役員を数えて20人足らずであった。救いの神は山田校長先生が、ピチピチの現役の女子生徒10名引率され参加されたことであった。お陰様でなんとか格好がついたが、仮に同窓会だけだったら・・・・・

◇校歌とは「気分をアクティヴにする」を共有

同窓会長はじめ役員はタクトを振る指揮者、写真撮影、籏持ち、場内案内、などそれぞれのご苦労なお役があり、合唱者は、数少ない。ピアノ弾く音楽の女史先生を忘れていた。ごめんなさい。タクトを振るのは同窓会長とピアノの伴奏に合わせて練習を始めた。当初はぎこちなかったが、段々気分が高揚しメンバーが乗ってきた。これが不思議だ。

左手に歌詞をもち、右腕を振りながら校歌と応援歌を交互に歌う。何とも言えぬ気分が盛り上がったのが不思議だ。カラオケとはまた違う気分の高揚であった。

特に応援歌がよろしかった。作詞者の多田宏は我が19期同期生である。

写真-1三商メンバーの元気の良い合唱

校歌祭写真

◇フレフレ三商を共有

練習中に気分が盛り上がり、校歌とは気分をアクティブにかえる効果があることに気が付いた。応援団の真下さんの音頭で進行し最後に「フレフレ三商」、これが良かった。ここで最高潮となった。この気分は同窓会で共有しなければ勿体ないと思いますがいかがでしょうか・・・・

◇参加者100人目標

以前に校歌祭の参加者目標を「100人しよう」との呼びかけがあった。

終了後の反省会で三商会杉本会長より、「100人目標を」とも呼びかけもあり参加者を増やさねばと思う。

◇山田校長先生に感謝

最後ではありますが山田校長の指導力、行動力に感謝申し上げこの稿を終わります。

写真-2終了後記念写真

校歌祭集合写真

”四知(しち)”と”裏金騒動” 28期 若月健司    2023年12月投稿 

令和5年12 28期 若月健司

先日、散歩の途中ふらりと近所の図書館を久しぶりに訪ねました。各種の新聞を読んだ後、好きな作家である宮城野昌光のコーナーから「三国志読本」(文藝春秋発行 2014年5月15日第1刷)を取り出し借りてきました。

本の構成 ①ロング・インタビュー・・・私の「歴史小説」
*壮大な作品群の背後にある歴史感と小説感、今後の展望を語っている。

②自作解説・・・三国志の世界
*前漢→曹操と劉備 ”四(し)知(ち)”という言葉が魅力的→警世の言葉

③対談・・・歴史小説を語る 対談者~水上勉 井上ひさし 宮部みゆき
吉川晃司 江夏豊 五木寛之
*吉川晃司・江夏豊は別世界の人と思われるがお二人の博識に驚く。

④講義&対談・・・中国古代史の魅力
中国古代史入門 項羽と劉邦の激動の時代
対談者~白川静 平岩外四 藤原正彦 秋山駿 マイケル・レドモンド
*残念ながら④の部分はこれから読みます。

③まで読んだ頃、あの自民党の「裏金騒動」が発生したのです。そこで”四知”の言葉が浮かんできました。

”四(し)知(ち)”~「天知る 地知る 我知る 子(汝)知る」→「後漢書」によると後漢の名臣、楊震(ようしん)が賄賂を持参した者に発した言葉です。誰も見ていないからといって賄賂を受け取ったら「天も地も見ている、私もあなたも知っている。誰も知らないことがあろうか」とその賄賂を拒否したとのことです。

今回の「裏金騒動」ではパーティー券の売上金を記録に残さず着服したようですが、その行為は賄賂を受け取る行為と何ら変わらないでしょう。関係者として派閥の会長・事務総長・会計責任者そして当該国会議員側がいますが、この一連の流れを「おかしい」と感じた筈です。子どもの頃、「お天道さまが見ているから悪いことはできないよ」と言われたものです。選良と言われる人たちが所謂「ネコババ」的なことをやるとは信じられないのですが、現況から裏金騒動は現実らしいです。

この本の中に「昨今の日本の世上を賑わしている事件なども、人に知られなければいいというか、内々の論理や密室の合意が横行する結果だという気がします。それを思うとこの”四(し)知(ち)”という言葉に警世の響きを感じるんですが」とあります。この本は9年程前に発行されていますがこの間、今日まで色々ありました。第2次安倍政権の発足・アベノミックス・一強多弱の政治体制・もりかけ問題・公文書の改ざん・桜を観る会事件・拉致事件と北方領土交渉の停滞・集団自衛権承認・旧統一教会と政治の癒着などを考えると日本の国際的地位が低下するのも当然の感があります。

この本は読みかけ中ですが、この先が楽しみです。 以上。

36 我が街 船橋を歩く 船橋の魅力(7)家康と船橋(7)―家康の側近 成瀬家の菩提寺 宝成寺―      29期 仲田元昭   2023年12月投稿

戯言&独言38                                          21期 髙野 昇        2023年12月投稿

タイトル2 ▲今年の光と、闇と陰

相も変わらずコロナ禍への不安は収まらず、7回目の予防ワクチン接種は済んだとはいえこんな状態が何時まで続くのか。色々あったこの1年、自分なりに勝手に振り返ってみたい。光と闇、どちらかといえば闇と陰の方が多かったのは先輩、後輩諸兄も同感だと思う。

明るい話題に、二人の若者について語ります。まずプロ野球大リーガーの大谷翔平選手。大谷選手がWBCの決勝戦をまえに控え室で選手全員に語り掛けた言葉の中に「メジャーリーグに憧れるのは止めましょう。立場は対等…・」なんでもない短い言葉の中に前向きに、一歩後退・二歩前進の強い彼のひたむきなココロずもりが表れていました。年長のダルビッシュ有投手が大きく拍手していたのが印象にのこります。監督も各コーチ連の拍手もお座なりのものでなくいかに力強いものであったか、ドキュメンタリーのCDを見て感じました。今や最高の大リーガーとなり、一挙手一投足に注目が集まりながら、奢ることなく全てにおいて顕著で控えめ、そして男前。野球は一瞬の判断で打つ、投げる、この瞬間的判断力に優れている大谷選手にMVPは当然。春先からコロナ云々の中で数々の話題を提供してくれたWBCでしたが素晴らしい好青年の来季の活躍に期待したいものです。そしてこの稿を書き上げたと同時にドジャースに移籍が決まりました。私の予想どうりで西海岸の暖かい土地にある球団を選んだのは投手として少し肘に不安を持つ彼としては懸命だったと思います。10年契約1000億円の契約も凄いが、それでもあまりを語らずさらに驚くべきは代理人に10年間に50億円の手間賃?を払うなど、これから10年間、ドジャースのユニフォームを着た彼の姿を見られるの楽しみです。

▲も一人の若者、将棋界の藤井聡太棋士。ビッグタイトルの全てを獲り八冠王となりました。野球の三冠王どころではないとんでもない記録の達成でした。私自身、将棋はできるが子供のころは”まわり将棋”や”はさみ将棋”など学童疎開先の山形で来る日も来る日も冬ごもりの中でさんざんやっていました。そういえば将棋駒の産地は天童市で疎開先の近くでした。坂東妻三郎の映画「王将」は大阪の名人棋士坂田三吉を扱ったいい映画でした。話がそれました、藤井聡太棋士の八冠は凄いですね。昔はこんなに沢山タイトル戦は無かった筈ですが、それを総なめしての最上位は若干20歳を思うと、どんな脳みそ構造なのか、高校も中京地区のかなりの偏差値の高い学校を中退しての大名人は頭脳明晰、冷静沈着、10手先までは当たり前に読める世界、野球とは違い長考が許される世界とはいえ、それ故に判断に誤りが許されず、どう考えても20歳の若者の許容範囲とは思えない強者です。それにしても将棋界はスポンサー(新聞社など)があるとはいえお金があるのも知りました。…・この二人の若者の爽やかさは私達の心の中に記録と記憶として残る筈です。この若者二人に…あっぱれ!…を。

▲闇と陰では宝塚事件、日大アメフット、楽天の安楽投手etc宝塚と楽天の件はいずれも先輩、後輩という悪い縦関係の組織が底辺にみえます。先輩、後輩などの言葉や発言は私達の在学中は卒業生の諸兄に対して言うもので在校中の上級生には○○さんと言っていました。今は中学入学と同時に部活に入れば先・後輩など当たり前に言っているようです。上の者は絶対、そんな意識が早々と脳裏に埋め込まれいくのですね。以前から高校野球や相撲の世界がそうであるようについに女性だけの宝塚にもあったなんて。昔、宝塚劇場の前を歩いていたら女性ばかりの人だかり、何事かと思いきや楽屋口からタカラジェンヌが宿舎に帰るのでファンが整然とならび前列の子は全員片膝つき、それを差配する年配の女性もいて驚いたことがありました。団員の上・下だけの関係だけでお辞儀の角度が悪い、先輩の前で笑うなどでイチャモンをつけ体罰的な陰険行為に走る、これはかっての軍隊の宿舎などで行われていた下級兵士に対する”イジメ”と同格ではないでしょうか。安楽投手然り、それを笑って見ていた田中将も悪い。日大アメフットの話も”闇と陰、それらに…喝…を数発。

岸田バックマージン内閣、喝・喝・喝・喝…‥‥‥‥‥‥

29期3年1組有志 第2回街歩き      29期 仲田元昭   2023年11月投稿

3年1組有志第2回街歩き1
3年1組有志第2回街歩き2

木鐸 第三号                      19期 細田安治    2023年11月投稿 

木と暮らし写真

◇木場のイベント目白押し

10月はイベントが目白押し木場公園の広場も連日のようにイベントが行われている。毎年の事であるがイベントの都度思うことを述べたい。

◇イベントに思うこと

・一つは1日ないし2日のイベントに、準備と後片付けを入れて、4から5日から大きなイベントでは1週間かかっている。主催者側はイベント会社に請け負わせ、言葉を変えれば丸投げして業者のペースで進めている。

商売人が考えれば、設営に1日あれば十分できる。場所の制約なしで広いところで組み立てするだけである。なぜ、この程度の仕事に数日を要するのか。疑問を持っている。

・二つ目は、イベント続きの為、参加する区民の側がなれるというか、飽きてしまい、イベントの目的であるインパクトが薄れてしまう。季節のいい時期を狙ってやるわけなので集中してしまう。分散できないのだろうか

・三っ目は、イベント自体が新しいものは殆どない。ないどころか,皆無ではないか。マンネリ化のため区民を始め参加者が飽きてしまう。新しいイベントを発案すべきと思考する。

木と暮しチラシ2

◇第40回木と暮らしのふれあい展

・こんなことを言いながら、木材関係の主催者側の一人として参加した。なのでいくつかご紹介したい。

「木材や」にとっての最大イベントである第40回「木と暮らしのふれあい展」と銘打ち10月21日、22日に行った。木材の需要拡大を目的にして官民一体となって全国的に展開している。各都道府県別に開催している。今年で第40回となった。ということは40年前の昭和48年から始めたことになる。石油ショック後の需要の落ち込みで木材業界は苦境にあえいでいた時代だ。第一回は日比谷公園に集合し、木場から木材の製品や原木をトラックに積み込んで大雨のなか、びしょ濡れで銀座通りをデモ行進したことが始まりだ。その後新築なった現在の東京都庁の中庭などで開催していたが、平成4年旧木場移転完了し、木場公園の整備がなった木場公園に会場を移した。木場公園を会場にしてから30数年経過している。

イベントの目玉は、木材の需要開拓まず気を知ってもらい、そして使っていただくことが目的だ。そこで、木の無料配布持ち運びができるように小さくしてお持ちいただきやすいように工夫した。実用品の販売俎板、お箸、本立て、本箱等々お買い上げいただく。次の大目玉として、木で作品を作って頂くこと、つまり日曜大工経験して頂く」。そばには木場のものが付き添ってお手伝いしながら作品を仕上げていく。これが大人気となっている。小さなお子さん小学生中学生のお子さんたちが親御さん一緒に、鋸を使い板や棒を切り、区議を売って仕上げていく。これが面白く毎年大人気となっている。

実は、三商へポスターとチラシを持参し是非「学校の行事として参加してください」とお願いしてきたが、いまだ実現していない。粘り強く母校三商への啓もう活動を続けていきたい。この続きはまだまだあるも、同総会より字数出来るだけ減らして、と言われている。ので今号はこの辺で失礼する。

科博のCFに思う・・・ 28期 若月健司    2023年11月投稿 

令和5年1 28期 若月健司

先日(11月7日)の新聞紙上で上野の国立科学博物館がCF(クラウドファンディング)で予定額の1億円を上回る約9億2千万円を集めたとの記事がありました。大きなクジラの模型がある同館にはこれまで何回か見学に行きましたので、馴染みがありました。そこで

ふと思ったのは「独立行政法人とはいえ国立の博物館がCFを行わざるを得ないのか?」という疑問でした。記事によれば国からの運営交付金が2022年度は25億4千万円、2023年度は28億4千万円が交付されています。しかし最近のコロナ禍での入場者の減少や円安による光熱費の急激な高騰での財政悪化対策と共に収蔵庫の整備費の調達が今回のCFを行った目的とあります。確かに公立館の7、8割は収蔵庫が満杯になっているようです。

国は外国人観光客を集めるのに躍起になっていますが、その基本となる博物館への対応が少し疎かになっていないでしょうか?博物館などの箱物建設に対する抵抗感が強いのは

理解できますが先人の残した貴重な遺物が倉庫の片隅に積み上げられたり、博物館の廊下に置かれたりしているのも耳にします。2019年に文化財保護法が改正され従来からの

文化財の保護に文化財の活用が加えられました。当然それには博物館等への予算増額が為されねばなりません。今回の記事を読んでまだまだ日本の文化行政への遅れが感じられます。CFを行なわなくても良いほどの国からの運営交付金の増額を望みます。

この記事から私の住む江戸川区のことを連想しました。江戸川区のグリーンパレスという建物の3階に「郷土資料室」というフロアーがあり江戸川区の歴史的なものが展示されています。上小岩遺跡の土器・葛西沖の海苔づくりの材料・れんこん作りの様子・昭和30年代の部屋の様子・江戸時代の寺小屋・板碑・貝や魚の採り方などがワンフロアーに展示され、

区内の小学生3年生が学校単位で見学に来ます。その展示説明に「文化財・郷土資料室ボランティアの会」の私を含めたスタッフが当たります。見学時間が1時間程度で制限され、展示物もワンフロアーの中に展示されていますので窮屈で、子ども達に理解されているのだろうかといつも気になります。展示されているほかに学校の空教室に収蔵されている文化財が何千点もあると聞かされています。江戸川区は昔からゼロメートル地帯で水害対応で

手一杯という事情は理解しますが、そろそろもう少し広い展示場を確保し、文化の面でも他区に追いつくよう望みます。

以上。

35 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(6)家康と船橋(6)船橋大神宮と常磐神社―      29期 仲田元昭   2023年11月投稿

戯言&独言37                                          21期 髙野 昇        2023年11月投稿

タイトル2 オールデイズ

私にとってはなんといっても「長崎の鐘」である。医師永井隆博士のエッセイ集「この子を残して」からサトーハチーローが作詞し曲はあの古関裕而、藤山一郎がいつも熱唱していた曲。詩を書いたサト-ハチローは書き上げたその日、泪がボロとあふれたとTVで徳川無声との対話で話していた。このエッセイを中学の時、担任のK先生が一部読んで聞かせてくれ、残される二人の児の内、長男の方が私達と同学年であったこともありクラス全員が泪し、読んでいた先生も胸にせまる様子が私達にも伝わっていた。作詞、作曲、歌手ともにすでに鬼籍に入り、今以てリメイクして唄う歌手は居ない。私はあの8月9日には拙いハ―モニカで静かに奏でる慣習があり最近は泪脆くなったせいか最後もで奏でることができない。…♪慰め励まし長崎のアァ長崎の鐘は鳴る。

田端義夫の「かえり船」は敗戦から2年後くらいの歌だったとおもう。外地にいた邦人や復員兵が氷川丸などの大型船で帰国、それを田端義夫が唄いヒットした。レコード屋、電気店の店先で聴き少し哀しい歌と感じた。後に藤圭子がリメイクし「TUTAYA」から借りたCD版に「かえり船」が入っており、改めて本家の田端義夫の唄いかたの違いを知った次第。田端義夫はなんとなくマドロス的なそれらしい唄い方で、外地でさんざん苦労して引揚げてきた内容の歌詞としては藤圭子のドスのきいた低音で唄い心にしみこむ唄い方がすきである。彼女は男心を唄うにはふさわしい低音と声の良さで、引揚船中の人と岸壁で待つ家族の感情を見事に唄いあげ、私はこの曲はご本家の田端義夫より藤圭子がいいと思う。…♪カモメ行くなら男の心 せめてあの娘に伝えてよ。

「東京ブギ」朝ドラで人気。いずれ番組の中で唄い出すはずのこの歌、笠置シズ子が全国区として認知されたのはこの歌からだと思う。父が敗戦後の貧乏生活の中買い求めた「4球スーパーラジオ」から流れていた。有楽町日劇で実演を見たことやオーケストラボックスに唄いながら落ちたのを見たことはいつぞやのHPに書いた。沈みがちなあの当時の日本の現況、焼け跡、ヤミ市、パンパン、カストリ、ヒロポン、浮浪者、予科練がえり、かつぎ屋、戦犯などが氾濫していた時代、床屋にゆくにも石鹸・手拭持参の時代でもあった。あの快活元気、陽性な磊落な笑い声、この歌を聴いている時間だけでも全ての暗さを忘れさせてくれていた。中學時代のあのころ貧乏と焼け跡に元気をくれたこの歌の後にも「買い物ブギ」「ホームランブギ」などがヒット。「ジャングルブギ」の作詞はあの黒澤明氏であることはあまり知られていない。後日談として彼女がシングルマザーだったのを知ったが、銀座辺りを商売にしていたパンパンから絶大な応援をうけていたのも頷ける。昭和の喜劇王エノケンにも気に入られ数々の映画、舞台で共演、あの笑い顔と関西弁が庶民的で親しみを覚えた。朝ドラの中で彼女に扮しているのがあの伊藤蘭と水谷豊の愛娘であることも最近知ってビックリしている…♪世紀の歌、心の歌東京ブギウギ。

20歳台の頃社交ダンスが流行っていて、わずかばかりのステップを憶え友人が勤務する銀行のクリスマス時の社内パーティーやグループ同士のパーティーに時折参加させていただいていた。そして心に残るオールデイズは林伊佐緒自作の「ダンスパーティーの夜」である。そんな雰囲気の中、この曲にはなにか期待感と大人の恋、哀切が籠められていて懐かしい曲である。作曲者の林伊佐緒は歌手でもあったが他に数々のヒット曲があった。新橋にあった「フロリダホール」にも友人と何度か行ったが相手のダンサーに払う料金が高く、結果2階の喫茶室で聞いているタンゴバンドやフルバンドの生演奏の方が楽しかった思い出がある。ここで初めてフランク永井を見た。肝心のこの曲の中で「♬踊りつかれて二人で、ビルのテラスに出て見れば、星がきれいな夜だった」ビルのテラスなどの洒落たモダンさ、3番の別れを告げる彼女になんにも言えぬ自身の虚しさ、やるせなさ、そして最後のなんともなんとも愛おしく泣かせる歌詞、自分の青春時代の思いと少し重なり忘れられない曲である。…♬はかない夢と諦めて、別れましょうと言ったきみ。

木鐸 第二号                      19期 細田安治    2023年10月投稿 

写真-1琴冨貴前で元気者

◇木鐸会の生き残りは二人

前号でも述べたが木鐸会の生き残りとしては、今は2人となり寂しい限りだ。そこで2代目木鐸会として勝手に19期会が引き継ぎ発信をし続けようと企んでいる。

◇百歳迄が百歳越えて頑張るぞ

何度も述べるが19期会は毎月19日に会合を開き「生き残りの同志」が集い気勢を上げている10月期は19日に集合し百歳を超えて頑張るぞと盛り上がっている。一人づつだけでなく長い人生の歩んできた三商時代のとっておきの話や、今は「無き友」との交流を披露、合いの手がはいったりして、掛け合い漫才のような雰囲気もうまれこのようなおしゃべりを「はなしのさかな」にして、「百歳迄頑張るぞ」がいつの間にか、「百歳を越えるぞ」に変わった。どこまで元気なのかこの連中は、いったい「お前のトシはいくつなんだ」。と聞きたくなるような元気さである。写真-1琴冨貴前で元気者

写真-2第40回木と暮らしのふれあい展

この連中に何か書かせたいが、いざ自分で書くとなると、「アアデモナイ」「コウデモナイ」と言って、面倒くさがって筆を執らない、そこでとりあえず細田が、つなぎとして、代弁者として発信を進めるのでよろしく

◇第40回木と暮らしのふれあい展 10月21日・22日

昨日江東区深川木場公園で上記イベントが行われた。江東区を代表する「木材や」が、この日は気の良さを知ってもらうとして全国一斉に行う。このイベントは40回、40年前から全国的に木の良さを訴える運動である。

写真-2 第40回木と暮らしのふれあい展

写真-3緑いっぱいの山々と川の流れ

◇木は地球を救う

ここで木と水の関係を説明し、「木は地球を救う」として説明したい。そもそも山の樹は二酸化炭素を吸収し酸素を吐き出す。山は雨を貯え土砂崩れなどの災害を防ぐ、地球と人間の生活にとって最も重要な資源である。

◇水と樹木と大地のかかわり

樹木の本来の機能は、山林から始まる。樹木は二酸化炭素と酸素を交換して大気を清浄化する機能に加え、山岳地帯にしっかり根を下ろし、雨水を吸収し、髄管を通って浄化する。さらに樹根全体で水をしっかり包み込む形で貯留し、樹根の細胞タンクが満杯になれば放出する。樹木の根元から地中に地下水となって貯留され放出される。根元から地下へ雫が流れ出す。この雫が集まり森の中にせせらぎを生み、数多くのせせらぎが集まり小川をつくる。小川は山から里に向かって流れる。里には農業灌漑用の堰(せき)がつくられ、水は田畑を潤す。このように人間の生活に最も必要な水を守っているのが樹木即ち木であり、木は地球を救う所以である。

この水の流れの中で、水はそれぞれの場で山を守ってきた。樹木の根元をしっかりと固め、山崩れを防いで来た。

日本の気候、春夏秋冬の季節のなかで、このように水は山をそして国土を守っている。

写真-3 緑いっぱいの山々と川の流れ

SDGs折り返し、大丈夫か? 28期 若月健司    2023年10月投稿 

令和5年10月 28期 若月健司

昨年の6月に「確認したい三つの未来!!」というテーマで寄稿しました。そのうちの未来で「SDGsが目指す2030年頃の未来」があります。国連でSDGs(持続可能な開発目標)が採択されてから今年でおよそ半分が経過しました。SDGs活動の様子がメディアでも盛んに取り上げられています。その進捗状況はどうなっているのだろうかと思っていたところ、先月の25日付朝日新聞朝刊に達成状況の記事がありました。

~日本のSDGs達成状況と2022年からの進み具合~
(持続可能な開発ソリューション・ネットワークによるリポートから)
→ 停滞 ⤴ 適度に改善した ↑ 改善または達成を維持している ・ 情報なし

1 貧困をなくそう

2 飢餓をゼロに

3 すべての人に健康と 福祉を

4 質の高い教育を
みんな

5 ジェンダー平等を 実現しょう

6 安全な水とトイレを 世界中に

7 エネルギーをみんなにそしてクリーンに

8 働ぎがいも経済成長も

9 産業と技術革新の基盤をつくろう

10 人や国の不平等を なくそう ・

11 住み続けられる まちづくりを

12 つくる責任つかう
責任

13 気候変動に具体的な
対策を

14 海の豊かさを守ろう

15 陸の豊かさも守ろう

16 平和と公正を
すべての人に →

17 パートナーシップで目標を達成しょう

 

 

 

*2022年との比較で →5ヶ ⤴10ヶ ↑1ヶ ・1ヶ となり、全体的に適度に改善したように見えるがどうでしょうか?

*同リポートによると国別の達成度ランキングでは日本は21位である。過去は2017年が11位、2022年は19位で年々後退している。

*低評価の課題として①ジェンダー平等②つくる責任つかう責任③気候変動対策④海の環境保全⑤陸の環境保全が上げられる。

*SDGs達成を阻む要因として①男女の賃金格差②女性の国会議員の少なさ③製品や原材料の輸入に伴う二酸化炭素の排出量の多さ④廃棄される小型家電やプラスチックの多さが指摘される。

日常生活で特に感じること
気候変動対策~メディアでは集中豪雨や地震などの被害は報じるが、その根本原因となる地球温暖化を防ぐ対策を報じるべきと思います。
少子化対策~異常なる少子化対策というが、目先の給付などのバラマキでなく安定した家庭生活が営まれる社会を構築する政策を図るべきと思います。

SDGs達成まであと7年余り、健康に留意して私自身も達成に努力し、達成を確認したいと思います。

以上。


34 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(5)家康と船橋(5)船橋御殿跡―      29期 仲田元昭   2023年10月投稿

戯言&独言36                                          21期 髙野 昇        2023年10月投稿

タイトル2
戯言36

▼あの東京五輪
10月となると1964年、日本初の東京オリンピックからこの10月で早や59年の歳月がたった。その後も冬季の札幌オリンピック、長野オリンピックがありそして一向に盛り上がらなかったこの間のオリンピック。70代すぎの我々からしたら64年の大会は戦後の復興から高度経済成長に移行していた日本にとっては先進国への仲間入りを前世界に告げる絶好のチャンスであった。高速道路、新幹線、モノレールなど五輪前の完成めざし、新幹線は開催(10月10日)9日前に運転を開始している。競技に使用された計時用時計も機械式ではないクオーツ式を採用、計測に関わるトラブルエラーゼロの快挙だったのを後日セイコー勤務の友人から聞いた。衛星による生中継が初めて行われ、国内でまだ30%に満たないTV普及が一気に90%に上昇したのは凄い。そんな中、抜けるような紺碧の空の下、坂井選手の聖火点灯、オリンピックマーチの中での選手入場、この最後の日本選手の入場行進にわが三商の20期生の出町豊氏がいたことは同窓生としていまだに誇りに思い、オリンピックの開催ごとに必ず思い出すのである。パリー大会も近く日本の若い力とその技に期待したい。そういえばこの64年大会の前年に私共夫婦が結婚し、今春はダイヤモンド婚をむかえた。孫から「じーじは生きてる昭和史だね。また知ってる事教えて」と言われている。

▼監督交代
巨人の原監督が契約の1年を残して辞任。後任にはヘッドコーチだった阿部慎之介さんに決まった。伝統の巨人軍としては2年連続のBクラスとは許されない現実であったか。阿部新監督は浦安生まれ、安田学園、中央大学と当時としては球児のエリートコース歩み捕手として着々として立ち上がり、捕手で監督になった人は森、野村、上田などかなりの実績をつんだ人が多く巨人ファンの方々にはグーなことで、彼曰く「今年は”アレアレ”でしたが来年は”アべアベ”で」と言ったのは駄洒落としては巧い😃アンチ巨人の私としてはそれよりも中日の立浪監督の来年の手腕に期待したい。でも退団した3人がコーチと部署を替えて残留したのに荒木守備走塁コーチが退任したのには少し疑問あり。暫定的と言われながら井端新WBC監督が、かってのアライバコンビの実績をふまえてWBCのコーチにでもなるかと思いきやメンバーでには入っていずファンとしては少し残念。しかし根尾(桐蔭)・石橋(関東一高)の若いバッテリー、三振か本塁打かの細川、大島の後継となるかの岡林、また粋の良い若い投手陣に期待したい。どちらにしても監督は選手の心、技術力や思いをくみ取り、戦うのは監督ではなく選手なので自分の思うようにいかなければ選手を詰り罵倒や鉄拳、そんな指導の時代は通用しないとWBCや慶応高の甲子園の姿を見てつくずくと感じた

戯言36-2

▼笠置シズ子
朝ドラの 「ブギウギ」が始まった。私は笠置シズ子の実演(古い言葉、いまは死語)を有楽町にあった「日劇」で中学生の時と三商1年生の時と2度見にいっている。当時は歌謡ショーと封切り映画がセットになっており指定席ナシ、入替ナシの時代だった。最初に行ったのは父の職場(魚河岸の佃煮製造店)の友人の娘さんが日劇に勤務していた関係で2度とも「顔パス」入場、舞台に近い席には「演出関係者席」の張り紙がしてあった。その席でオーケストラボックスから前列4・5番目で父曰く「笠置シズ子の唄っているツバキが飛んできた」など言っていた。場内は物凄い人で溢れ熱気ムンムンだった記憶がある。まったくのかぶりつきで熱唱を聴け、笠置のあまりにも唄いながらの動きの凄さに圧倒された。そして見てしまったのである。笠置が舞台からオケボックスの中央にある幅90cmくらいの廊下(業会用語で出ベソといっていた?)を唄いながら客席の前え出てくる途中でオケボックスに転落してしまったのであった。辛うじてオーケストラ員の手助けで舞台に上がりその間でも「東京ブギ」の歌声は途切れなかった記憶が鮮明にのこっている。日劇勤務の娘さんは「時々落ちてました」と笑いながら後日言っていたそうだ。今思うとあの強烈な動きと歌唱は敗戦数年後の暗い世相の日本国内に目には見えない勇気と励ましをくれた歌とリズム、客席に居た4・5人の米兵が立ち上がって拍手していた姿を中3の私は奇異の目でみていた。世が世であれば彼女は吉本興業の後継者でオーナーになっていたはず。朝ドラが楽しみである。

▼ジャニーズ
NHKTVの「あさィチ」で数年MCを務めていた井ノ原 快彦さんが今回の騒動で矢面にたたされて苦戦している。NHKTVでの朝の放映ではイメージとして高感度な印象が強く,我々高齢者も好青年だなの思いがあった。しかし今回の事件で初代社長の性的な悪趣味で多数の被害者が出て暴露された。会見に同席していた東山 紀之さんとの見方の違いが感じられそんな事実があった事を知らなかった、被害もなかったと記憶にも噂にも聴いていないとおぼろ気な会見。吉井勇の「祇園小唄」じゃないが”♬記憶朧に東山”であった。その後も”質問させないNGジャーナリストの存在があったり、知っていながら知らない素振り、肝心の女社長が2度目の会見には姿を見せず、この元社長がこの社の株を100%持っている、後援会会員が1300万人おり年会費4000円で莫大な年収金、そんな有耶無耶の中、単なるタレントの2人がどんな手腕を発揮できるのだろうか期待は少し疑問が多大である。

木鐸                      19期 細田安治    2023年9月投稿 

「木鐸」とは、木の舌を持った金属製の鐘。古代中国では、鐘を鳴らし人々を集め政令などを交付した。八佾「論語」では、「天下これ道なきや久し。天まさに、天子を以て「木鐸」となさんとするごとし」などとあるように、これから転じ、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえる言葉となった。木鐸会のメンバー会長の亀井さんを始め、発足時から木場の「木材や」では一目も二目も置かれる存在であり、「木材や」論客として、「我こそは世の中の人々を目覚めさせ、正しい道へと導く者なり」であったであろうと推測する。尚余談だが、舌も金属製のものは金鐸と言って、軍事に関する件の布告に、用いられた。この会へ林さんを入会させたかったが、「意が通ぜず」今でも残念に思っている。もっともこの会のメンバーは、製材、問屋、小売りが主体で、上の方は問屋であったため銘木には関心が薄かった。だが残念だ。林さんが入会していればもっと盛り上がり、会も更に活性化し、世の中にもひいては都立三商にも貢献できたのではないか“。お付き合いがいかに大事かを痛感する。ここに、亀井さんの没後会長をされていた「木好会」亀井さんをしのぶ短歌を紹介しご冥福を祈念する。木好会 亀井会長をしのぶ

以下文宛短歌

・深川と木場を愛して木に惚れて翁のごとく浄土に旅たつ・これからは東木協の月報に木場好人の物語なし・上木場の旅行宴会亀井節木場シャンソンは二度と聞かれぬ・逢うたびに元気印の亀さんと呼びし先輩今宵浄土に・数々の功績残し世を去りし輝く巨星永久(とわ)に讃えん木好会亀井清蔵氏写真前列中央

氏名役職 卒業期 社名業態
亀井清蔵会長 1 亀井商店国産材原木
四倉栄次郎副会長材商副 2 四倉材木店港区小売り
榎戸 勇 11 山恵内外原木・製品・問屋
山﨑幹事長 堀貫木材外原木・製品
小池 小池木取り店国産材銘木盤木専門店
青木 青木木材ラワン製材地挽
一条 18 吉条木材米材原木製品問屋
川名省三 19 佐貫屋一般建築材卸問屋
木戸隆吉 19 ほまれソース新大橋ソースメーカー
細田安治 19 細田木材工業製材木工、乾燥、突板、集成材
岩瀬茂雄 23 三進木材ラワン製材工場

2023年令和5年9月16日

木鐸会の生き残り 細田安治

やはり、存在してたんだ!!~アーキビスト~ 28期 若月健司    2023年9月投稿 

令和5年8月 28期 若月健司

「モリカケ事件」や「イラク戦争時の自衛隊戦闘記録」、古くは「沖縄返還における密約」いわゆる西山事件、最近でも「旧統一教会の名称変更事件」など公文書(行政文書)の改ざんやら黒塗り公表が公然と行われています。そんな事件を知るたびにある「もやもや感」がありました。国民の知る権利がなぜ簡単?に改ざんなどされるのだろうかと思うのです。公文書を第三者が管理できないのだろうかと思うのです。ところが私の知識不足もありましたが令和2年頃に国立公文書館が人材育成に乗り出し、「アーキビスト」という専門職を認証したとのことです。このことを知ったきっかけは朝日新聞(令和5年3月29日付)の「多事奏論」というコーナー(記者:岡崎明子)です。そのコーナーの内容は

・欧米ではアーキビストが専門職として確立しているが、日本ではその存在さえほとんど知られていない。これまでアーキビストとして認証されたのは281人だけ。

・そのアーキビストはどこにいると言えば公文書館に66%、博物館・資料館に16%、行政機関に5%、省庁には数人。

・アーキビストの役割~常に公平・中立を守り、証拠を操作して事実を隠蔽・わい曲するような圧力に屈せずとある。

・日本の官僚マインドは明治時代に作られた「官吏服務規律」から脱し切れていない。記録を残すのは天皇の政府の先例を確かめるためで、国民に公開するためのものでなかった。

・元号が平成から令和に変わった時、御厨貴東大名誉教授に「令和の時代にまず取り組むべき課題は」と問うたときの答えは「それは公文書管理です」だった。

この「多事奏論」を読んで「もやもや感」が少し薄れました。ただ281人というアーキビストでは少なすぎますし、待遇改善や社会的認知を高める必要があります。また、アーキビストには圧力に負けない・忖度をしない独立意識の高い心が求められます。

以上。

33 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(4)徳川家康と船橋(4)―       29期 仲田元昭   2023年9月投稿

戯言&独言35                                          21期 髙野 昇        2023年9月投稿

タイトル2■私のオールデイズ<2>

オールデイズとは正しくは主に1950-1960年代に米・英などでヒットしたポプュラー曲の事を言うらしい。私のオールデイズは私なりに洋の東西、年代を問わず若い頃に印象に残った曲、演奏をオールディズとしています。

▼[Bei mir bist.du. schon」
日本での曲名は「素敵なあなた」です。東京大空襲で焼け出されて江戸川区小岩に避難生活をしていましたが、敗戦の1カ月後に駅に行く道すがらにあるレコード店から流れていた曲です。アメリカで30年代に大ヒット、特に女性コーラスが多く唄っていた様です。当時のレコード店はレコードの他にラジオや楽器、蓄音機なども扱っていましたが戦時中は外来の曲など売る事も出来ず温存してあった洋盤が終戦、敗戦のお陰で日の目を見る事が出来、店主がこの曲が戦前からのお気に入りだったと後の噂で知りました。その証拠に自らアマチュアバンドを作り街なかの空き地で週一ペースの演奏会を開き、そのバンドの開演テーマ曲がこの曲でした。そのメロディーにのって日本語で♬朗らかに唄いましょうみんなのAMC♪と唄い演奏が始まります。兄二人と3人で見に行くのが楽しく、曲名など知る訳もなく何か心がウキウキし帰路の足取りも軽くアイスキャンデーをなめながら帰宅していました。進駐軍向け放送(WVTR)で日長一日ラジオをからジャズが流れていたあの時代でした。

▼[Youare my sun shain]
この年齢で知らない諸兄は居ないと思う曲「ユーアーマイ サンシャイン」です。兄二人が敗戦後の学制改革前の府立三商の5年生と3年生でした。戦時中は英語の授業など有る訳もなく敗戦後も教師は戻ってきても教材も3人に1冊のペラペラのわら半紙のテキストが配られていたと兄達から聞いていました。そんな中、英語の先生が黒板に筆記体文字でこのユーアーマイ…・をいとも簡単にスラスラと書き生徒は全員「ホーッ」ととなえノートに写させ「分かり易く、憶え安い歌詞なので英和辞典で歌詞を翻訳し出来た人は後日先生に見せなさい」と言い英語の授業にも拘わらず先生が見事に何度も何度も唄ってくれたそうです。帰宅しても二人の兄が唄い小学生だった私も完全に覚えてしまい3人で合唱したりして隣の小母さんが「3人とも歌と英語が上手ね」と褒められ記憶があります。私が憶えた、唄えた初めての英語の歌です。3人の夫々の結婚式での披露宴では3人揃って必ず合唱した3人共々のオールデイズであり忘れられない曲です。

戯言35-2

「Shine」
ベニー・グッドマンセクステットが奏でる「シャイン」です。三商通学時の朝、am7:00過ぎにラジオ東京(現TBS)から番組のテーマ曲として曲のイントロ部分が流され軽やかで、覚えやすく何故か気分も良く、その番組を聴いて(イントロ部分が軽快)爽快な気分を貰い自宅から都電の停留所に向かいました。B/グッドマンが1957年に来日演奏、その公演を見に行きこの曲が奏でられた時はなぜか胸に迫るものがあり感動をもらいました。国内では「鈴木彰治とリズムエース」の演奏がよく、ドラムのジミー竹内の軽やかなブラッシングが素敵でした。

▼「On the sunny side of the street」
日本では「明るい表通りで」です。私にとってはイギリスのフルバンド「テッド・ヒース楽団」が奏でるものが最高で、ブラスセクションを自在に駆使した切れ味は抜群、メリハリの利いた端切れの良さ、すべてが素晴らしい。NHKの朝ドラ「カムカム・エブリボディー」でもバックに使われ、ルイ・アームストロングが唄っているので主人公の名が「ルィ」と名付けられたエピソードが放送の中でありました。日本でもフルバンドのコンサートでは必ずと言っていいほど演目にはいっています。ダンス曲としても少しテンポの早いフォックス・トロットか、若い人にはジルバも良し、これぞフルバンドのジャズらしいジャズです。

戯言35

▼Tennessee waltztと江利チエミ
ご存知の曲です。在学中のころからやたら巷にあふれ、TVの無いこの時代、ラジオから流れる野球中継と音楽が楽しみでしたが、敗戦後これほどまでに親しまれた洋盤が他にであったかなあと思います。本場アメリカでも大ヒットし唄っていたP/ページのレコードのプレスが追い付かなかったなどのニュースもありました。街のレコード屋さんも予約販売をしたりで大ヒット、街の小さなパチンコ屋まで店内で流し近所のパチンコ屋の小父さんが「ワルツは打ち玉のテンポに向かず客の回転も落ち、内の商売は軍艦マーチが一番だよ」と笑ながら言っていました。在学中のタイプの時間には先生の目を盗んで英文の歌詞を打ちこんで、ほとんどの生徒、同学年がやっていました。放送部が流す昼休みの校内放送もこればっかり、街なかの街宣、珈琲店や銀座の不二家でも、あの神田の三省堂の店内にも流れていたことがありました。其処へ彗星の如くあらわれたのが15・6歳だった江利チエミです。日本語と英語を混合して唄い私と仲間たちは「ジャズ歌謡」なんて言ってました。他の日本のジャズ歌手もこれぞと如く参戦、しかし江利の敵にはなれず、他のジャズ曲を「ジャズ歌謡」で唄い出していましたが、しかしどれもこれも江利の発音・発声・パワーには及んでいたとは思えずその後の江利の活躍はTV、ラジオ・ステージと順風満帆の活躍でした。高倉健との結婚で世間を驚かせ、豪邸の火災、身内からの不祥事、離婚、孤独死とあまりの数奇な人生は終焉となりました。同級の故細田武君との縁で彼女と多少の接触があった私としては彼女の歌謡曲「酒場にて 」は悲しい私のオールデイズです。

第29期同期会でのご縁(その2)                                      29期 仲田元昭   2023年8月投稿

29(2)

”人新世”という言葉が再び・・・ 28期 若月健司    2023年8月投稿 

令和5年8月 28期 若月健司

先月の13日(木)の朝日新聞朝刊で「人新世」という言葉に再び出会いました。その見出しは人間の活動 地球史揺るがすという大きなテーマでその記事の中で「人新」という言葉があったのです。

「人新」(ひとしんせい又はじんしんせい)という言葉は昨年の1月のメルマガの寄稿文に「SDGsと人新と資本論」という文章の中で記載しました。そのきっかけは「人新の資本論」という本(著者:斉藤幸平東大準教授)を読んだことからです。大量生産大量消費を基本とする成長経済から脱経済成長に転換すべきというのが大意と理解しました。経済の仕組みを転換し、地球の限界の中で持続可能にしていく、即ちこれからは「人新時代」に入るべきというのでした。

この度の記事では地球の地質年代を決める国際地質科学連合の人新作業部会(09年設立)が「国際標準模式地」としてカナダのクロフォード湖を選んだと発表したのです。誕生から46億年と言われる地球の年代はこれまで火山の爆発や地殻変動や大隕石の衝突などによる地層の特徴により決められていました。「代」から始まり「紀」「世」「期」と細かくなり100以上の年代に区分されています。ちなみに現代は「新生代・第四期・完新世・メガラヤン期」です。「クロフォード湖」が選ばれた理由は①無酸素で海流がない海底②水深の深い湖③鍾乳洞・サンゴ礁④年こう(堆積物が1年毎にしま模様を作る)などの条件に合致したようです。地球46億年の地質の中で1950年頃から人類による堆積物が急激に多くなったのです。即ち、①プルトニウムなどの放射性物質②化石燃料から生じるブラックカーボン(すす)③マイクロプラスチックなどです。模式地として日本の別府湾も候補に挙がりましたが別府湾は地震などにより堆積物が乱される可能性や年こうが明瞭でないことで外されました。堆積物だけでなく1950年頃を境に①世界の人口が20数億人から90億人に達する②肥料の消費量が0,2億トンから2億トン近くに増加③大気中の二酸化炭素が270ppmから400ppmに達する④陸域の生物多様性の減少が4%から15%に増加など地球の環境は悪化しています。

猛暑の過ごし方・台風の進路・有名人の不倫・マイナカードと保険証・政治家の汚職・政治家の観光旅行・官房副長官への疑惑・某大学の大麻事件・ウクライナ問題など話のタネは多くあります。そんな中で地球46億年を考えた時間はわずかですがすっきりしました。以前、地球カレンダーを作って講座を開いたことがあります。地球の46億年を1年間のカレンダーにすると産業革命以降の約250年は大晦日の31日23時59分58秒というのです。たった2秒間に我々は生きているのです。しかしその2秒間で化石燃料を使い温暖化を招き、核兵器使用を公言し、猿が支配する「猿の惑星」という映画を実現するかも知れないのです。

「人新代」のいう人間活動による堆積物の増加は地球史における一時的なイベントに過ぎないとする意見もありますが、今後この言葉は地質学だけでなく人文社会学や環境問題の分野などで広く用いられると思います。そして「人新」の意味を理解してこの地球と人類が永遠に続くことを祈念します。

以上。

32 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(3)徳川家康と船橋(3)―       29期 仲田元昭   2023年8月投稿

戯言&独言34                                          21期 髙野 昇        2023年8月投稿

タイトル2■8月に思うこと

▼8月も半ばを過ぎ私達年齢からしてみればやはりこの月は”8月6日9日15日”となってしまいます。8月6日は広島、9日は長崎への新型爆弾(当時はそう言ってました)の投下、そして15日は「敗戦忌」、米国では9月2日を大戦終結記念日としているようです。この日は戦艦ミズリー号艦上での締結調印式があった日でした。新型爆弾の恐ろしさは幾多の報道で知らされ、8月6日、9日には何処にいても黙祷を忘れたことはありません。それに8月は学童集団疎開や縁故での疎開に出発した月、私のいた国民学校は山形県上山温泉(現かみのやま温泉)へ500人近い集団疎開、3年生から6年生までの貸し切り夜行列車の大移動でした。

戯言34

私は疎開児対象のいちばん下の3年生でしたが上野駅での父兄の見送りは許されず、出発前の校庭での送別の式典が父兄との別れで、その後の東京大空襲(昭20年3月)で家族を失い最後の別れとなった友人も数多くいました。町の隣組、警防団、知人、親戚などが日の丸の小旗を振り私達はまるで戦地の赴く出征兵士のようでした。病弱の生徒以外は学童疎開か縁故疎開かの二者択一でしたがそんな友たちよくと小松川の中土手にツクシンボを獲りに行ったり、砂町の田圃へザリガニ(私達はエビガ二といってました)釣りやタニシやセリ獲りなどに行った事などはこの日この月が最後でした。当時よく一緒に遊び歩いた宇田川國一君は疎開は別々でしたが戦後避難先の小岩で再開、間借りの家もすぐ近所、小4から中3までクラスも一緒、奇遇な再会に手を取り合いました。今でもメール、電話のやり取りがあり8歳当時からの友人がいる事にお互いに感謝しています。当時の友人はこの宇田川君だけとなりました。

▼8月15日疎開先で聞いた天皇の詔勅、9歳の身で何の事やらサッパリ判らず敗戦を知ったのはその数時間後か翌日でした。「これで家族の処に帰れる」が頭に走ったのは確かです。同年11月に避難先の小岩に帰りました。6畳と3畳の二間に家族7人で起伏していましたが両親、兄妹と同じ屋根の下で暮らす戦争のない毎日の安心感に食糧難ではあったが幸せを感じました。敗戦以降マッカーサーが唱えた日本の非軍事化、民主化政策、婦人参政権など矢継ぎ早に指令を出し大きく国柄をかえました。先ず天皇は国威ではなく單なる象徴、主権は国民、財閥は解体、表現、結社、言論は自由、そして私が思うに「農地解放」と「教育改革」はその後の日本の在り方に大きな変革をもたらしたと思っています。

戯言34-2


▼6・3制の義務教育化などは最たるもので私達年齢層は”新制中学生”と呼ばれていました。三商最後の旧制中学5年生だった兄はこの改革で高校3年生になれたものを家庭の経済的事情で在校進学せず、学校の斡旋で新光レーヨン(現三菱マテリアル)に入社しました。新制中学の授業では歴史の授業は皆無となり新たにホームルーム、社会科、家庭科などが加えられましたが教材となる資料に乏しく音楽の時間では「リンゴの唄」を何度も唄っていたこともりました。ある友人が田端義夫の「帰り船」を皆で唄いたいと真面目な真剣な顔つきで先生に申し出ましたが勿論却下、この唄は復員船に乗り帰国は出来るものの、敗戦による虚しさ、悔しさ、帰国できるうれしさ、国敗れて山河ありの複雑な思いを船上に飛ぶカモメに語りかける哀愁を込めたメロディーと歌詞です。彼の父親は既にビルマで戦死しており仲間は皆そのことは知っていましたが、今思うと悲しく思い出す彼の顔、夏休み中の登校日にあったあの時の8月です。「農地改革」で有難みを受けた農家は食料不足で買出しに来る人々が増え、消費者は金がないので殆どが”物々交換”ですませ、農家は一時「農地大臣」とまでいわれていました。そして今、農業人口もグンと減り田畑が税金対策の「生産緑地」となっているものの草ボーボーの休耕田、自家消費のみの田畑の姿をよく見かけます。教育改革だけは周り径もあったけれど今以て維持され、現在の文化、教育、企業の発展などに大きく寄与しているのは事実だと思っています。

▼在学2年生の時の8月、気の合う友人と連れ立って葉山の森戸海岸に行き、3年生になってもそのメンバーでよく行ってました。当時はまだ今の様な高級リドート地ではなく混雑もなく夕日の沈む美しさを眺めてから帰宅しました。錦糸町駅前の「蕎麦屋」で皆で盛り蕎麦を食べ解散、盛り蕎麦が20円の時代でした。卒業後も数年つずいており各勤務先の保養地の温泉巡りも何年か続けていました。石塚芳男君、鹿野宗治君、西村義雄君、小枝昇邦君、8月になると思い出す懐かしいメンバーです。

雑句 ・青天に あの日八月 さまざまに

***写真説明…

■左から鹿野君・西村君・小枝君 後列は石塚君

「リンゴの唄」SP盤レコード(実家にかつて保存してあったもの)

イノシシ倶楽部 久しぶりに子ども達と・・・                     28期 若月健司    2023年7月投稿 

令和5年7月
28期 若月健司

コロナ禍騒ぎもようやく下火となり、私の所属する「イノシシ倶楽部」の活動が本格的となり、先月は2回にわたり子ども達に接する機会がありました。この倶楽部はNPO法人えどがわエコセンター内の会員20数名からなる団体です。出前講座や各種イベント出展やすくすくスクール(放課後授業)などで環境問題に関する啓蒙活動を行っています。

その1 「環境フェア」 6月4日(日)9:00~15:00 於:江戸川区総合文化センター

テーマ ~手作りCDコマを回そう~
材料は使い切ったCDとペットボトル(羽根部分)を組み合わせ、それに箸を通してコマを作 るのですがそのCDやペットボトルにサインペンで絵を描くのに子ども達は夢中になります。そして出来上がったコマを回した時の子ども達の達成感に満ちた顔をみると「ワ~やった~!」とみんなで拍手をします。昼時間を挟んだ長時間でしたが用意した80組がなくなりました。スタッフは6人でしたが高齢者が多く終わった時はぐったりの状態でした。

その2 「出前授業」 6月30日(金)9:30~12:10 於:西一之江小学校5年生

テーマ ~地球の環境問題って何だろう?~
体育館(全員) 画像・映像・クイズなどで地球温暖化の原因など説明→温暖化への取り組み→再生可能エネルギーって何だろう?
各教室(クラス毎) ~持てるかな?エネルギーのかばん~
1人1日当たりのエネルギー消費量を石油に換算した場合の重さをアメリカ・日本・中国別のカバンを用意して子ども達にそれぞれのカバンを持ってもらう体験授業。

私はこのかばんのテーマは初めての体験でしたので先輩スタッフの活動を見習うだけでした。

振返って
昨今、SDGsと言って環境問題に熱心になっていますが、江戸川区では20年近く前から「日本一のエコタウンを目指す!」として「NPO法人えどがわエコセンター」を立ち上げ人事の面や予算の面で支援しています。私もイノシシ倶楽部に所属して20年近くになります。子ども達を対象に活動してきましたがその子ども達もいまや成人になっていますので、私たち年代よりこれからは若い人たちに環境問題の改善に取り組んで欲しいと思います。

*すくすくスクール(放課後授業)の今年度予定 令和5年8月~令和6年2月
申込校:14校 スタッフメンバー10名程で対応予定
プログラム:手作り風車を回そう! 風力体感「エコ・凧作り」 手作りCDコマを回そう
えこちょいす(買い物ゲーム) E*カプセル(宝さがしゲーム)
ゼッタイ!エコガインダー(DVD視聴)

この活動がどれほど効果があるのかいつも?に思いますが、やらないで逃げるよりいいと思っています。

以上。

31 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(2)徳川家康と船橋(2)―       29期 仲田元昭   2023年7月投稿

戯言&独言33                                          21期 髙野 昇        2023年7月投稿

タイトル2魔球の杉下さん逝く

🥎プロ野球界のレジェント杉下茂さんが6月12日、98歳で他界されました。今でこそフォークボール(以下FBとします)は投手であれば誰でも投げる球種ですが杉下さんは日本球界のFBの元祖で魔球と呼ばれたFBの開拓者でした。私が初めて杉下さんを観たのは杉下さんが明治大学に在学中の、上井草球場だったと思います。友人の父親に誘われ友人と3人でいきました。対戦相手はどこの大学かは記憶にないのですが相手チームのユニホームが眩しいほどの白だったので早稲田大学かもしれません。ほとんどの選手が学徒動員で戦地に赴いた中、幸運にも前線で敗戦を迎え復員帰りだったと思います。早稲田の岡本,石井藤吉郎、慶応の大島、明治の大下、そして杉下、早稲田大が戦時中隠蔽していた100ダースほどのボールとマッカーサーから寄贈されたバットを使用していたそうです。今はボールに少しでも土や汚れが付くとすぐボール交換、75年前との環境の差をつくずく感じます。

戯言33

🥎帝京商業ー明大ー中日と機会あるごとに恩師天知俊一氏の恩恵を受け数ある投手の栄冠を全て受賞、天知氏から「FBという球種がメジャーリーグの投手の一部が投げている、指先の間隔が広い君には向いているかも」と指導を受けたとの事、杉下さんの著書にも書いてありました。杉下さんの人差し指と中指の間隔は90度は楽に開き、指の長さも人並み以上だったのでしょう。20年以上前か、ロッテに在た村田兆治氏(故人)とのTV対談で改めてその凄さを確認しました。FBは空振りを獲るための球種で、捕手の額を目掛けて投じホームベースにワンバウンドになり落差は80㎝から100cm、これがFBだとの話に村田氏も納得、「君のあの独特なマサカリ投法はそれにピッタリ」と賞賛しており村田氏は凄い感銘を受けたようでした。

🥎昭和27・8年頃だったか杉下さんは当時の西澤、服部選手(この両氏の背番号15と10は中日球団の欠番となっている)らと共に天知氏の自宅を訪問、「2・3年後には優勝したい」と監督復活を直接天知氏に懇願、天知、杉下の強力なラインが復活し昭和29年の日本シリーズで中西・豊田・大下・関口等を擁したパリーグの覇者西鉄を破り覇者となりました。セリーグのライバル巨人の川上哲治氏は「あのFBはボールの赤い糸目がはっきりと見え数回転しかせず、打者の2メートル手前で落ちる、それも全てワンバウンド、見逃しせず全てバットを出したがヒットを打った記憶は殆どない」と当時の「野球界」という雑誌で述べていました。西鉄の中西太さんも「同僚の稲尾も凄かったが杉下さんには程遠かった」と同誌で語っていました。TBSのTVやラジオの解説者としての発言で「現在の投手の投げるFB、あれはFBではなく昔のドロップで今のスライダーも私が投げていたカーブに近い、スライダーとは水平に曲がり打者のアウトサイドを鋭く衝くボールのことである」ことを何回も力説していました。そのとうりだと私は今でも思っています。

戯言33-2

🥎完投する中でFBは3・4球しか投げておらず直球とカーブで勝負、コントロールの抜群の杉下さんでした。在籍の長かったドラゴンズの後輩たちには毎年のキャンプに同行し、星野、小松、川上、山本昌、吉見などを臨時コーチとして育てていました。輝かしい中日での戦歴の中、背番号20は欠番にもならず(大毎オリオンズに移籍して4勝し他チームに移籍したためか欠番にならず)その後も阪神、巨人のコーチも務め杉下さんの寛大さ野球発展の為の寛容な思いに改めて感服する次第です。

🥎生涯成績は215勝123敗、防御率2,23で、高齢の野球評論家数人が曰く、「杉下さんに準ずるFBを投げたのは野茂、村田、佐々木くらいだろうか」と訃報を載せたスポーツ紙が書いていました。100歳近くまでプロ野球を愛し、輝かしい記録を残し天寿を全うした杉下茂氏、ご冥福を祈り合掌。

🥎日本シリーズMVPに国産乗用車が副賞として送られていましたが(今はどうなんでしょうか)第1回の受賞者が杉下さんでした。地元でもありトヨペットクラウンでしたが当時は豊田市(トヨタ本社がある)ではなく拳母市で立教出の長島氏と同期の杉浦投手(南海ホークス)の出身地、だから地元のよしみで愛知のチームからの受賞者で胸を撫でおろしたかも。豊田市は産業城下町のNO1ですね。

ガイドも楽し!!                      28期 若月健司    2023年6月投稿 

令和5年6月
28期 若月健司

コロナ禍もようやく落ち着いたせいか、街歩きの人達が多くなったようです。今月の6日(火)には老人クラブでサクランボ狩りを兼ねた甲府から河口湖周辺のバス旅行に行って来ました。その際のガイドさんの説明を聴くうちに私自身のガイドのことを思い出しました。これまでの主なガイド経験は三回あり、二つは過去の話で残りの一つは現在も行っています。

*その1 「歩こう会スペシャル」~所属する「くすのきクラブ」の主催で副会長の私がその担当責任者でした。前任者からの引継ぎで平成19年7月11日の第42回から平成31年2月27日の第84回までの42回を担当しました。途中、中止の回もありましたが年に4回実施ですからおよそ12年間にわたり担当したことになります。
日帰りの行事ですが実施日は年間行事予定で決まっています。行事の趣旨として「健康と教養の向上」ですから、それなりの行程となります。参加者は60歳以上の高齢者(男性1:女性2の割合)で平均30人程です。

気を使ったこと・適当な歩く距離・昼食場所の確保(平日の常連客を優先するため団体客の予約が難しい)・迷子と事故(幸い、発生せず)・訪問先の選定(観光でなく社会見学を主眼)

印象に残っているコース
・江戸川区内めぐり:江戸川区の無料バスを利用し、毎年2月に区内の施設をめぐる。6回実施するも残念ながら区の経費節減政策で無料バス廃止となる。今後の復活を期待する。

・第43回平成19年11月14日(水):世田谷八幡宮 豪徳寺 世田谷城址公園 郷土資料館 代官屋敷 勝国寺 若林公園 松陰神社 参加者(男性10名女性18名)
昼食場所が見当たらず小さな洋食レストランを無理に貸し切り状態とした。

・第46回平成20年7月23日(水):国会参議院 日比谷公園 参加者(男性14名女性21名)
昼食場所に予定した「日比谷松本楼」を予算不足で断念。

・第49回平成21年4月22日(水):上野公園内(清水観音堂 時わすれじの塔 時の鐘 東照宮 寛永寺 輪王殿 西洋美術館 その他) 参加者(男性12名女性22名)
昼食に評判の「韻松亭」の予約が取れて良かった。

・第50回平成21年7月8日(水):防衛省 お札と切手の博物館 参加者(男性16名女性26名)
極東軍事裁判の部屋と三島由紀夫演説バルコニー及び割腹の部屋が圧巻。

・第67回平成26年7月9日(水):皇居吹上御苑 東京駅丸ビル 参加者(男性17名女性30名)
予約手続き面倒、風雨の中大変だった。

・第68回平成27年2月25日(水):警視庁本部 法務省史料展示室 参加者(男性14名女性22名) あの”桜田門”に入り納得、赤煉瓦の建物と内部資料に歴史を体感。

・第75回平成28年11月30日(水):東京都庁 熊野神社 エコギャラリー 参加者(男性11名女性21名) 議会場や委員会室や防災センターを見学し、政治の密着を体感した。

*その2 「水輪会」~水輪会はNPO法人えどがわエコセンター内のボランティア団体であるイノシシ倶楽部に所属する会です。「水」に関心のある有志で平成20年から平成27年まで活動しました。会員は10名ほどで私は最初から所属し、平成25年から解散した平成27まで会長を務めました。親子連れを対象に水に関する講座や出前授業や講演会及びバス見学会を行いました。又、「水と私たち」という小冊子を発行し小学校の副読本としても利用してもらいました。

バス見学会
平成21年:①「首都圏外郭放水路・龍Q館」(埼玉県)&「水の科学館」(有明)
平成22年:①「船番所」(江東区)と「江戸川区の防災訓練 ②「浦山ダム」(埼玉県)
③「水の科学
館」と「虹の下水道館」(有明)・・・徒歩
平成23年:①「東村山浄水場」と「コカコーラ多摩工場」②「水道歴史館」・・・徒歩
平成24年:①「荒川知水資料館」と「ヤクルト茨城工場」②「関宿城博物館」と
「キッコーマンもの
知りしょうゆ館」
平成25年:①「花王東京工場」(亀戸)・・・徒歩 ②「足尾銅山」と「草木湖」
平成26年:①「忍野八海」と「富士湧水の水族館」と「花の都公園」
平成27年:①「JAXA宇宙科学研究所」と「ナッククリクラ研究所工場」

振返って
バス見学会は事前に訪問先の資料を配布したり、訪問先のガイドが就くので手数が掛からないのですが交通事故や病人の発生が心配でした。某年のバス旅行の帰りの高速道路で病人の発生があり、サービスエリアで小一時間待機したことがあります。その際、気付いたことですが「催事保険」の内容やバス会社の対応を事前にしっかり把握しておくことです。

*その3 「史跡ウオーク」~私の所属している「文化財・郷土資料室ボランティアの会」では江戸川区内の神社仏閣などを訪ねる史跡ウオークの際に参加者に訪問先の説明を行っています。企画・運営・準備などは主催者の江戸川区教育委員会郷土資料室が行います。春秋の各2コースと実踏(下見)があり、行程は午後の半日で約3キロ程歩きます。公募の参加者20名程と事務局員3名とボランティア5名ほどの構成です。説明は全員に用意された説明資料を基に行いますが、内容はオフィシャルに公開された説明文です。神社仏閣の開基者・中興の祖・由緒話・宗派・所有文化財などですが、私はそれに若干の話を付け加えます。例えば・鳥居は大きく分けると2種類ある・浅草寺と浅草神社は同じ漢字で読み方が違うのは何故か・別当寺とは・本地垂迹説とは・仏像の種類・参拝の作法・宗派の違いによる焼香・神社と寺の違い・第六天などです。又、時代背景を話して訪問先を立体的に説明することを心掛けています。

現在はその3の「史跡ウオーク」だけの活動ですが、体力の続く限り継続したいと思っています。

以上。

30 我が街 船橋を歩く―船橋の魅力(1)徳川家康と船橋―         29期 仲田元昭   2023年6月投稿

30(2

マップをクリックするとPDFの状態で表示され拡大できます。

戯言&独言32                                          21期 髙野 昇        2023年6月投稿

タイトル2弁当の友(弁友)

▼弁当の友などと言えばスーパーなど売っている冷凍食品かと思うでしょうが違います。昭和26年に三商に入学した時(1年2組担任は横山文夫先生)あてがわれた教室が校舎東の角にあった階段教室でした。理科の授業に使われた教室だろうと思いますが教室の片隅には水道が引いてあり(水はでなかった)黒板は上下式2段になっており初めてこんな黒板があるのを知りました。教壇から見ると生徒全員の顔が良く見え、生徒側からは実験の手元がよく見えていたはずです。教室の下は地下室で4・5段降りると濁水がたっぷりと溜まっていました。2学期にはいっても蚊が沸いていて教室にも入りこみまいりました。机は2名並びで数段、両サイドと間に2本の階段通路があり私の席は後ろから3段目でした。前の席のA君とはお喋りする機会も多く弁当の時間にA君の弁当がすっかり覗くことが出来、彼の弁当のオカズはかならずといっていいほどふっくらとした”卵焼き”が入っていました。

戯言32

▼私の知る限りの”卵焼き”はフライパンで焼き少し丸めたものしかしらなかったので「いつもすげーなー」と思ったものです。A君も時折わたしの弁当をふりかえって覗き「髙野はいつもいいオカズだね」などいっていました。実は我が家は食料品店をやっていて納豆を始め、塩乾物、缶詰、漬物、野菜の煮物、そして佃煮など販売しており朝の6時頃には店を開け夫々の家庭の朝のオカズ、弁当のオカズの買い物客で忙しく母親が弁当をつくってくれた記憶はほとんどなく全て自作自前の弁当でした。したがってオカズは店から好き勝手なものを多かれ少なかれ弁当箱にいれ今思えば贅沢で豪華だったのでしょか。海苔弁なども底に一枚、中間に一枚、さらに弁当の上にも、さらにご飯にアミの佃煮をまぶし、ウズラ豆の甘煮もたっぷりと添えていました。

▼ウズラ豆の甘煮は当店でのベストセラーだったので両親の目を盗んでたっぷりと弁当箱にいれていました。でこんな簡素な弁当がA君には美味そうに見えたのでしょうか。ある日カツオの角煮と貝のひも(赤貝)の佃煮のオカズの時、お互いに食べたいものだったのか半分ずつ交換しました。彼はよっぽど角煮の佃煮が旨かったらしく、私は彼のなんとも言えぬふっくらした卵焼きが食べたくオカズの交換が週に3回くらいあり、「鮭の塩焼きが喰いたいなァ」などリクエストしてきたりで私は注文に応えていましたが私はただただ彼の卵焼き一筋、ある日彼の母親が「お前が卵焼き好きなのはわかるけど滋養が偏るよ」と言ったとかで卵焼きとは暫くお別れ。でも小ぶりのシュウマイが入っていたり小さく揚げた小エビのてんぷら?などの時もありでオカズの全取り換えをした事もありました。シュウマイなどオカズに食べるなど、町中華で家族7人で一個ずつ食べた記憶しかない私にとってはラッキーでしたね。よく憶えているとおもわれますが勉強はさておき古い古い日記を紐解くとA君とのオカズ交換のことが時折書いてあり「アッそうだったなあ」と思い出す次第です。

▼今はワンコイン弁当が大はやり、どちらかと言えば肉系、特に鶏のから揚げなどバラエティーに富みオカズの多さに驚き、飽食の時代が慢性化しています。私達の時代からみれば豪華そのもの、昔の遠足は梅干しのおにぎり、小6の時の遠足で修学旅行と称して”江の島・鎌倉”に行きましたがふかし芋2本が私の弁当だったのが悲しいやら懐かしいやら、「衣食足りて礼節を知る」なんて言葉を当時は知ってはいたが礼節があったかは兎も角、オカズの交換で友人が出来たなんていい時代でした。彼の本名は勿論知っていますが2・3年生時にはクラスも別れ、時折廊下ですれ違う程度、弁当の話など無く卒業し就職したか、進学か自営か、それとも既にか…判りません。弁友だったのがA君の負担になるかなどの思いを巡らしあえてA君としました。

▼”入谷の朝顔市”が4年ぶりに開催。7月6・7・8日です
そこで雑句

色さえて 入谷の朝の 人だかり

戯言32-2

「言葉」は大切と思います・・・                       28期 若月健司    2023年5月投稿 

令和5年5月
28期 若月健司

先日、テレビを視ていた時にウクライナ紛争を描いたドキュメント映像で「言葉」の大切さを感じました。映像制作者の妻が発信した「彼は戦争によって殺されたのでなく、人間によって殺されたのだ」という言葉です。因みに夫である映像制作者はロシアによる爆撃で亡くなっています。私が特に感じたのは戦争によって殺されたというくだりにある戦争という単語です。戦争という単語で表現されると何か人間の手を離れた物体が襲来してきて人間を殺傷しているようなイメージが湧くのです。人間の手では遺憾ともしょうがない自然災害のような諦観が湧いて思考停止になるのです。

しかし少し考えるとそうではないのです。戦争は人間が引き起こすのです。防ぎようが難しい自然災害と違い防げるのです。まさに彼女の夫は人間によって殺されたのです。戦争による戦死者が〇〇名と発表されると「戦争だからなあ」とそこでへんに納得して思考停止になりがちです。戦争という言葉に「殺しても良い」という免罪符を与えていないでしょうか。「人間が〇〇名殺した」と聞くとギョッとします。

最近の話題の中にも「言葉」を大切に使って欲しいなあと思うことがあります。「新しい資本主義」の新しいとはどんな意味か私自身の不勉強のせいか良く理解できません。何か新しいという言葉を使えば将来が明るくなるということでしょうか。具体的にどうすればどうなるのかの説明が省かれているのです。「異次元の少子化対策」も然り、金銭的な対策でなく、30年以上も前から予想された少子化ですからもっと根本的な議論が必要と思います。異次元という言葉に惑わされています。「ヒロシマ・アクション・プラン」にも今更なんだという気持ちがあります。「G7」に便乗しての言葉遊びに見えるのです。八つ当たりかも知れませんがなぜカタカナですか?核兵器の被害国の日本が核兵器禁止条約にも参加しない現状では世界の国々が?に思うのは当然でしょう。

最近、メディアの世界でもアルファベット表示やカタカナ語表示が盛んです。何となく意味することは理解するのですが具体的に日本語で説明して欲しいと思うのも年のせいでしょうか?先週の日曜日には三年ぶりの地域まつりがあり老妻とちょっと覗いて来ました。すごい人出で模擬店の前は長い行列が続いていました。特に気が付いたのは若い人たちや子ども達の多さでした。そんな混雑に身を置くと逆に孤独感に襲われて「世代の交代」を感じ「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉を思い出しました。この平和が長く続くことを祈っています。 以上。

29 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(27)山野浅間神社(2)―         29期 仲田元昭   2023年5月投稿

戯言&独言31                                           21期 髙野 昇        2023年5月投稿

タイトル2かみのやま温泉
戯言31

▼GWも押し詰まった5月6日、山形県”かみのやま温泉”を訪ねました。ここは戦時中の学童疎開で昭和19年8月から翌年5月まで過ごした思い出深い土地です。特別な観光地でもなく温泉宿が林立しているでもなく、駅前はGWとは思えない閑散さでした。疎開の日は夜行列車で12時間、初めて乗った夜行列車にみんな興奮気味で上野をでました。上の山で是非見ておきたい場所が2か所あり、単独で行くつもりでしたが高齢を心配して息子夫婦、それに家内の4人旅となりました。今は特急「つばさ」で2時間半、福島ー米沢にあった鉄道ファンにはたまらないスイッチバック3か所も今はすいすいと通過、豪雪地域でもあり列車の避難の為の”雁木”だけが当時の名残りのようにあり、それもアッという間に通過しました。

戯言31-2

▼昭和49年(1974)、お世話になった地元の方々に感謝の気持ちを込めて有志数十人で亀戸天神社の「藤」の苗木2本を上の山市内の月岡公園に植樹しました。あの日、市長をはじめ疎開児の寄宿先だった旅館の方々、私達20名ほどで盛大に植樹祭が行われ地元の新聞、TVの取材もあり、その数年後、市のご厚意よって記念の立派な石碑が建立されました。その「藤」もあれから50年近くたちましたが見事に成長しており、本家の「亀戸天神の藤」には及ばずとも東屋の棚に見事な紫色の房を見せていました。戦後復元された上の山城とのマッチングも素晴らしく亀戸天神とバックに見えるスカイツリーとの「親子藤」に感動しました。学童疎開を語り継ぐ先輩、同輩も残り少なく月岡公園に残る「藤」と石碑が無言の語りべとなって欲しいと願う思いでした。

戯言31-3

▼次に訪れたのは疎開時に宿泊していた温泉旅館です。かみのやま温泉の湯元にあり「湯町」と言っており当時は湯治客相手の二十軒ほどの旅館街でした。歌人斎藤茂吉の生家もこの中で「山城屋」という旅館をやっており、私達の亀戸第一国民学校の疎開児200名ほどがこの旅館街に寝泊まりし近在の地元の学校を借りて通学していました。私の居た旅館は「ふじ金」と言いその中でも一番小さく男女合わせて23名で寝起きをともにしていました。宿の主がとても優しく預かった子供達への気配り、目配りも良く、食事も規定外のものを時折出して頂き「鯉こく汁」や「鯉のあらい」など東京ではまず食しないものを時折いただきました。戦後も何度か家族や友人などで訪れて親交をさせていただきました。その時の部屋、風呂場、玄関など当時のまま残されており私自身の高齢もありこれが最後の訪問ときめ行った次第。息子さんの代に変わっていますが父親から疎開児の話は聞いていたそうで私達が寝泊まりで使用していた部屋や温泉の湯舟、毎朝「教育勅語」を唱和し食事をしていた十畳ほどの部屋が殆どそのままでした。息子さん夫婦も80歳を過ぎ宿泊客は取らず一日休憩のみになっていました。

▼小学3生9歳の時のあの寒さ、空腹、寂しさ、東京への望郷、昭和20年の3月5日に卒業で東京へ帰った6年生6名の内3人が4日後の東京大空襲で焼死してしまい残留していた5年生以下の中でも2人の同宿者の家族が一家全滅焼死していた報せをうけたのは一か月後でした。そして疎開学童は全員が近在の寺院にて移る(傷痍軍人が温泉治療で宿泊する為)ことになり 私達数名は親に頼んで縁故疎開を選択し昭和20年〔1945)5月にいったん帰省し私はその3日後に銚子の伯母の家に再疎開となりました。思い出ゴッコといわれればそれまでですが、各人それぞれの思い出は「自分史」であり小さな歴史でもあります。

▼以上二つの場所を拝見し、湯町を散策し日帰りの慌ただしい一日でしたが数々の思いとが脳裏を走馬灯のように走りその夜は興奮気味の一晩でした。

久しぶりのお花見で交流復活!!                        28期 若月健司    2023年4月投稿 

令和5年4月
28期 若月健司

今年のお花見は地球温暖化のせいか例年に比べ早くなりました。コロナ禍も落ち着いたこともありますがお花見と称して皆さんと集まる機会が3回ありました。

最初が3月24日(金)の「夢ぽすと」の集まりです。この集まりは「江戸川総合人生大学」のまちづくり学科3期生の私を含めた有志が在学中の平成19年に立ち上げた会です。趣旨は「ホッとする居場所づくり」で1~2ヶ月毎に講演会・新年会・忘年会・都内の街歩き・季節ごとの催事などを行って来ました。しかし、30名ほどの会員の中から高齢化が進んだり、認知症気味な方が出始めた為、令和4年3月をもって解散しました。その後、コアな有志だけでの集まりでもという声が出て今回の「お花見兼ランチ会」となったのです。私は当日の午後「くすのきクラブ」(老人会)の「カラオケ愛好会」の定例会がありランチ会のみで途中退席したのですが、出席の皆さんと久しぶりにお逢い出来楽しいひと時を過ごしました。特にI代表が連れてきたお孫さん二人が高校生・大学生となっているのに時の流れを強く感じました。この会を立ち上げた当時は二人とも小学生でした。コロナ禍でしばらく休会中でしたので尚、その成長ぶりに感無量になったのかも知れません。

2回目は3月25日(土)の「壇風会」のお花見です。この会は当団地内の有志での集まりで俗にいう飲み会が中心です。例年近くの公園で開いていたお花見会を久しぶりにやろうということでしたが、残念にも当日は雨でお花見が出来ず急遽団地内の「談話室」での宴会になりました。飛行場の元管制官のOさんが世話人です。高齢者ばかりの10人程ですがそれぞれが異業種出身ですので、その体験談を交えた話に盛り上がりました。

3回目は4月1日(土)午前の江戸川総合人生大学同窓会主催の「花見会」です。場所は江戸川区の「葛西臨海公園」です。午前10時にJR臨海公園駅前の噴水に31人が集合し先ず「パークトレイン」に乗って園内をガイド付で廻りました。そして「桜並木」をゆっくりと散策し、集合写真を撮り現地解散となりました。その後の昼食や観覧車乗車は各自の自由行動でした。コロナ禍の為同窓会の活動が自粛気味でしたので当日は先輩・後輩との久しぶりの会話が出来、楽しい半日でした。

以上。

28 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(26)山野浅間神社(1)―         29期 仲田元昭   2023年4月投稿

戯言&独言30                                           21期 髙野 昇        2023年4月投稿

タイトル2
戯言30

◎旅立ち
旅だちの4月、新しい職場や学校に向かい一歩前に進む姿は、見ている私達も心が弾んでしまう、ましてや家族や身内にそんな該当者がいれば尚更である。高校卒業生は入学から卒業までをマスクと共に過ごし、体育祭や文化祭もままならず、修学旅行もなく授業はリモーに。当たり前の事も出来ず「不条理」の世の中の3年間を終えて旅立って行った。可哀そうな世代と思って仕舞いながらも、それをステップに明るい未来と夢を描き乍ら前進する。「昨日があって今日がある、明日の日は今日より前へ」「一歩後退、二歩前進」。そんな思いを持って私が江商(現兼松)に入社したのは卒業式から3日目からだった。江商は一商と三商からしか採用せず当校から5人が受験、パスしたのは私だけだった。英語は自信がなかったが時事問題や珠算に高点が得られたと後日人事部長が教えてくれた。卒業式3日目に入社と言うより研修期間だったので珠算と簡単な英語のテスト的な毎日であった。ある日「今日は社長が諸君に会いたい」というので心して置くようにとの人事部長からの注意があった。社長は”駒村資正氏”と言い当時の「ジェトロ」の会長でもあった方で社長車はGHQ払い下げのリンカーンだった。一緒に入社した一商の二人とともに「わーっ!すげーなー」と目を丸くしたほどだった。ジェトロについては三商の社会科の時事問題の時間に習っていたので社長からの質問に難なく答えた記憶がある。背広など着ているわけもなく三人とも詰襟服でそのまま2か月くらいを過ごした。研修期間中の楽しみは毎日日替わりの仕出し弁当が提供され、その旨さと、もてなしは今も忘れ難い。現在の”コンビニ弁当”の比ではない豪華な昼食だった。4月に入り早々に人形町のこじんまりした料亭で高卒入社3人が呼ばれ是が入社式だった。今では考えられぬ粋でお洒落な式であった。それほどまでに新入社員を大切にする会社なんだと先輩入社していた19期石原さんからもうかがう事ができた。

戯言30-2

◎和暦と西暦
「昭和でいうと今年は何年なんだろうか」とフト思って仕舞う事がある。昭和に生きた50数年はその年代を西暦で言われたり読まされたりしても、歳のせいもあるが背景の社会の様子、世相がすぐには思い浮かばない。生まれたころから国内も世界もキナ臭く昭和11年2・26事件、同12年日支関係、同16年日米開戦、同19年学童疎開、20年の東京大空襲と敗戦、焼け跡‥‥いずれも和暦の昭和何年と正しく記憶している。昭和の年に25をプラスすればいいのに背景は他人事のように感じてしまう。私が西暦を身に感じ始めたのはあの「東京Olympic」のポスターが街中の公共機関に貼りだされたときからである。亀倉雄策氏の陸上の短距離のスタートをモチーフにした写真の秀逸さ、そして鮮明なデザインのもの、どれも昭和などの書き込みは無く大きな文字で”1964”とあった。そのころから西暦の確認、認証度は身近なものになってゆく。スマホでもパソコンでも生年月日は西暦、自分の事は兎も角、孫などのを入力する時はとまどう。平成・令和となりまたまた混乱。役所などは今もT・S・Hで少しほっとしている。その他にも昭和11年のベルリンオリンピック、15年の紀元2600年祭、ベルリンOPの時、父が新しくラジオを買ったと後年きかされた。紀元2600年祭の時、町内会の「隣組」の代表として父が皇居前の祭礼に出席、天皇拝謁ができるといって行っては見たものの天皇の「て」の字も見えず無駄足だったと母がいっていた記憶だある。三商入學は1951年というより昭和26年といってしまう。GHQ占領下であっても西暦はだれも使用せず、和暦が堂々としていた。そして昭和の60数年が終わった。

◎WBC
近年開催されたスポーツの世界選手権、ラグビーフットボール・サッカーも素晴らしかったがこの春のWBCはさらにその上を行った。優勝した事はもとより日本の日本人のもてなし、顕著さ、偏見の無さ、清潔感全てが世界の国、人々から賞賛され、こんな例は政治家の働きの数百倍の価値に価する。放送された映像で試合中でもベンチの中は塵一つゴミ一つ落ちていず、大リーグなど見ているとゴミ捨て場のような光景とは天と地の差、ボックスに入り「唾」をぺッぺッと吐く他国選手も多い中、侍ジャパンには誰もいない。品行方正、秩序の維持、礼儀正しさは本来の日本人がもっている当たり前の作法でもあるが、改めてTVから全国民に再認識させた効果は大である。決勝の日、大谷が「大リーガーとはいえ相手選手、チームに憧れてはいけない、ここに立てば力は同じ」名言だ。負けたチームにも選手一同拍手で送る、デッドボールをあたえた相手選手に菓子を沢山持って翌日謝意に行く美談の連続、今年の流行語大賞にはWBCからいくつ選ばれるか楽しみだ。

 

雑句三首

●花筏(いかだ)流れて先を争わず 

●河流れ 置きざれにされ花筏 

●墨堤や 雨も似合うか桜餅

私は”逃げ切り世代”か?    28期 若月健司 2023年3月投稿 

令和5年3月
28期 若月健司

昨年12月初旬に「私たちの地方自治」~とりもどそう、本当の地方自治~という講演を聴く機会がありました。講師は京都橘大学の岡田知弘教授です。地方自治についての話の内容は勉強になりましたが、その中で心に残った言葉があります。それは「未来が其の胸中に在る者之を青年と云う 過去が其の胸中に在る者之を老年と云う」と云う言葉です。これを残した人物は自由民権運動が盛んだった頃に活躍した高知出身の植木枝盛です。明治憲法制定までの天皇中心とする集権的国家運動と地方自治体を基本にした立憲主義にもとづく連邦的国家運動が対立していた頃です。

この言葉をその字句通りに読めば「青年は過去を知らず未来があるし、老年に未来はなく過去しか知らない」でしょう。しかし、これを残した植木枝盛の時代の人達の平均寿命は40歳代で彼自身は30歳半ばで逝去しています。まして明治維新に活躍した人達は20歳代前後の青年です。このことを考えると当時の老年に属する植木枝盛の云わんとすることは「自分を含めて老年よ、過去に浸らず未来の国造りに努力せよ!」ではないでしょうか。

これを現代に置き換えると平均寿命は倍になりましたが、国の環境は当時と似ているようです。明治維新(1868年)から太平洋戦争敗戦(1945年)までが77年間、それから昨年(2022年)までが77年間です。これからの77年間に何か大きな変動が発生する予感があります。昨年から今日まで国の根幹に大きく影響するような事象が頻繁に発生しています。

世界では*ウクライナ紛争から第3次世界大戦突入*核兵器使用も辞さずの雰囲気*軍事力拡大競争*温暖化による地球環境の悪化*台湾問題と米中対立

国内では*低支持率政府による政治の不安定*国民議論のない原発再稼働*隣国との外交悪化*軍事費倍増と少子化対策倍増のアンバランス*安倍・菅政権と日本の国力低下の因果関係検証不足*物価高による国民負担の増大*旧統一教会と政治の検証不足*財政規律からの高金利不安*言論の自由への圧力増大

いつの時代でも心配事はありますが、私の生きて来た今日までを振り返ると戦後のもの不足の時代がありましたが、高度成長を経験し、バブル時代も謳歌しました。幸い戦争は経験しませんでした。そして現在は年金生活で過ごしています。そのような中で子供や孫の顔を見るとこれからの社会が平和で推移していくのか気になります。私の年代はこのまま所謂「逃げ切り世代」になるのでしょうか?いや、子どもや孫も戦争などを経験しないように平和に暮らせるよう老年達が努力しなければならないと思います。前半の植木枝盛の言葉を思い出し老年も現在に安住せず未来を胸中に持つべきと思います。より良い社会の実現に努力したいものです。 以上。


27 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(25)龍神社(3)―         29期 仲田元昭   2023年3月投稿

戯言&独言29                                           21期 髙野 昇        2023年3月投稿

タイトルロゴ2022.06~仰げば尊し

▼まずは卒業した三商後輩の皆さんに”おめでとう”と申し上げます。この三年間マスクと共に過ごし、たまたまマスクをせずに校内の廊下で友人とすれちがっても誰だか分らなかったなどの冗談もありました。卒業式はどうだったか分からないが進学にせよ就職にせよ、いつもポケットにマスクをしのばせていることは必須です。

▼昔日の卒業式では“仰げば尊し””蛍のひかり”が当たり前のように奏でられ、泪ながらに唄った記憶があります。孫が小さい時「この歌って紅白歌合戦の歌だ」と思っていた時期がありました😃。”蛍のひかり”は兎も角”仰げば尊し”のメロディーと歌詞は心に滲みる曲で当時を振り返るのには懐かし曲です。新制中学時代、当時は戦後直ぐのせいもありどの教科も教材もなくB3位の印刷物を家庭に持ち帰りB5の大きさに各自が裁断し母に和綴じにしてもらい教科書にしていました。

戯言29

▼中学の3年間担任だったK先生は千葉師範出の方で全てにおいて教えて頂きました。体操の時間(当時はまだ体育とはいっていなかった)先ず野球の指導、ルールから始まり打撃技術といってもグローブやバットが有る訳もなく全て素手、ある日先生はバットをもって学校に来ました。実はK先生は師範生の頃野球部に属しその中の自前の貴重な一本でした。「このバットはルイスビル社製であのベーブ・ルースと同じものだよ」と言い甲子園の大会を目指していたそうです。伝説的なベーブ・ルースの話もこの時知りました。校内遠足で鳩ノ巣(奥多摩)に行ったときは”石”の存在年数や種類、夏休みは夜間に希望する生徒を集め校庭に寝転んで星座の名称や存在位置、江戸川の土手に生える雑草の名、小学校のプールを借りての日本泳法の伝統と指導などそれは限りなく3年間続きました。TVのクイズ番組で難問が出て私が難なく解答していると家内が「よく知ってるのね」と笑いながら言われる中でK先生から教えを賜ったものが数々あります。学業以外、K先が知っている限りの知識や思想などの考え方全てが私の日常生活の中で存在しているのを日々確認しています。仰げば尊師です。

▼卒業式の時に限らず日常的になっている「蛍のひかり」、この曲は英国の現国歌が制定される以前から国歌的存在であったらしいのです。蛍の灯りや雪明りで勉学に励む、詩としてはすばらしいが何か私には馴染めない部分がありました。そんな中、米映画「哀愁」(1943年作品、ロバート・テイラー、ビビアン・リー)を兄に誘われ日比谷映画劇場で見ました。そのなかで二人がダンス会場で踊る長いシーン、その時のバンドが奏でる曲が「蛍のひかり」でした。1小節が終わるごとにバンドマンがキャンドルを一つずつ消してゆく、このシーンの正にピッタリの画面と「蛍のひかり」のBGMでした。ビビアン・リーの美しさはイングリット・バーグマンと共に私の心に今も残っていますが、映画の中でのあのシーンはあらすじは兎も角今もって忘れられないシーンです。三商在学中の文化祭で映画上映が企画され全生徒の人気投票で「哀愁」が選ばれ講堂で上映されたほどでした。

▼今はユーミンの名曲”卒業写真”や先生方が壇上に上がり武田鉄矢の”送ることば”を唄う、そんな学校もあると聞き時代の趨勢には逆らえません。卒業生が新天地を目指して巣立ってゆく子供達の姿、見送る先生と卒業生が各自に別れの挨拶や握手で別れる、この光景こそ本来の姿ではないでしょうか。

写真は手作りの雛でです

第29期同期会でのご縁―60年ぶりの再会を果たす― 29期 仲田元昭   2023年2月投稿

年の初めにささやかな”ほっこり気分”    28期 若月健司 2023年2月投稿 

令和5年2月
28期 若月健司

毎年正月には昨年を振り返りつつ、今年はどんな年になるだろうかと新聞を読んだり、テレビを視ながら考えます。昨年は世界的にコロナ禍も終息せず、ウクライナ紛争も決着がつきそうに見えませんでした。地球の温暖化に伴う広範囲な自然災害が発生しました。米中対立も益々激しくなったり、アフリカなどを含む第三勢力が台頭してきたりして肝心の国連のガバナンス力が低下しています。

国内的には野球の大谷選手の活躍やサッカーの16強進出など明るい話題もありましたが、一方で7月の安倍元総理大臣銃撃事件、それに伴う旧統一教会と政治家の癒着問題が年を明けてもまだ尾を引いています。国民に範を示すべき大臣の更迭が多くあり、政治不信の波はじわじわと拡がっているようです。防衛費倍増や物価高や原発再稼働などの問題を抱えながらも我々の日常は過ぎていきます。

そんな中、昨年11月10日(木)に近所の「区立清新ふたば小学校」の三年生を対象に講師を依頼され務めてきました。依頼の経緯は学校の総合学習の時間に「自分達の住む清新町の歴史を知ろう」とのことで学校から「江戸川区郷土資料室事務局」に講師の紹介依頼が来たとのことです。そして「文化財・郷土資料室ボランティアの会」の会長で清新町に入居開始から40年住んでいる私に講師の話が来たのです。40年住んでいて清新町の変わり様は身を持って体験していますが、行政の専門家でもなく地域の研究家でもないので講師の資格はないと申しましたが、一住民の立場で良いからと言われ講師を引き受けました。

当日は10時30分から30分間ずつ3クラス(1クラス30数名)を廻りました。生徒たちは事前に質問事項を準備していたので「質疑応答形式」で行いました。私もそれなりに下調べをして臨みましたが、鋭い質問もあり、そこまで考えるのかと感心する場面もありました。

Q:誰が埋立地(清新町)を作ろうと決めたんですか?
A:東京都建設局

Q:埋立地はどのようにして作られたのですか?
A:ほかの土地から土を運んで埋めたり、ゴミや産業廃棄物などを埋めたりした。

Q:どうして若月さんは清新町に住んでいるんですか?
A:当時、住居を探していて偶然決めました。
住みやすいのでこれからも住みます。

Q:江戸川区の未来は人口が増えると思いますか?
A:少子化が進んでおり、このまま放っておくと
70万人から45~50万人に減ります。

Q:未来のために今、どんな計画を立てているか知っていますか?
A:知っています。江戸川区では
「2100年の江戸川区 共生社会ビジョン」という冊子を作り動いています。

Q:若月さんが来たときはどんなところでしたか?
A:最寄り駅の西葛西駅の周辺は畑だらけでした。

ほかにも数多くの質問を受けました。生徒たちは男女の区別なく活発で礼儀正しく好印象が残りました。そして年が明けた1月中旬に生徒たちから「お礼の手紙」がA4の用紙で22枚も届いたのです。字体こそ、つたないのですが内容は「ありがとう」の言葉が溢れていて正に「ほっこり」した気分になったのです。明日を担う子どもたちの為に平和な日本を引き継ぎたいと年初に気持ちを改めた次第です。以上。

26 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(24)龍神社(2)―         29期 仲田元昭   2023年2月投稿

戯言&独言28                                           21期 髙野 昇        2023年2月投稿

タイトルロゴ2022.06~日々是閑日

▼コロナ禍も4年目、一向に収束の影も形も伺えず、悠々自適ならず憂悠自粛の毎日、楽しい散策、好きな電車乗りもままならず困ったものである。その間、出掛けたのが二人の孫の進学成就のお参りで生まれ育った亀戸の「亀戸天満宮」に行った事、そして義弟の逝去の家族葬で船橋へ行った事、縁故疎開時(銚子市)にすごくお世話になった方二名がコロナ最中に亡くなり息子が車で「銚子市までつれて行くから」との親切心に甘え、ご家族に身に余る感謝をうけ少し胸の遣えも晴れた事。ついでに東日本大震災で3m近い津波に遭った父の実家(旭市飯岡)をみてきた事。家の中は滅茶苦茶らしいが新築後5年目くらいで外見は修復されされていたが空き家になっており家族は近所に転居、家の中で溺れそうになったことが家族全員がトラウマになっているとの事だった。

▼残念なことに三商時代からの親友、21期石塚芳男君の葬儀に参列できず、細田武君の告別式にも行けず、そして実兄清兄(16期)の葬儀にはご子息家族以外会葬者は一斉ご遠慮して欲しいとの連絡をうけた。コロナ2波、3波のころだった。年末には十数通の喪中はがきが届きこれも鬱の一つ。

▼昨年末、免許証の更新を済ませた。息子達は運転は止めたらというが高齢者二人の日常生活にはクルマは買い物や病院通いには無くてはならず自粛中とはいえ最低限度の外出道具である。雨・風・雪と夜間、繁華街・それに長距離運転は自粛している。高齢者の運転事故のニュースを見たり聞いたりするごとに胸が痛み安全運転を心に誓う日々を送っている。もっぱらの楽しみはパソコンかな。といってもゲームをするわけもなくYoutubuでJAZZや好きな中日dragonsのキャンプ中継を生で見たり時々通販で買い物、最近は電子レンジやホットプレートを買い変えた。コロナに入ってからは外食は一斉せずホットプレートは活躍している。

戯言28

▼そんな中、只々一つだけ心躍らせ熱くなった事がある。孫の一人が通学する城東高校(江東区)の硬式野球部が夏の高校野球の東東京予選で十数年来の宿命のライバルで東東京の優勝候補NO1と目されていた「関東第一高校」に勝った事である。それも1vs1の膠着状態の試合での8回表、走者2塁で孫がタイムリーヒットで勝利し準決勝進出を決めた。MXTVの中継をみて夫婦で興奮、抱き合ってしまった😄。翌日の各スポーツ紙東京版もかなり大きくページをさいていた。この大会の初戦(シード校なので3回戦から)にも9回表2死6vs8の敗退目前の劣勢時に孫が代打で起用されタイムリー同点2塁打、その後相手のミスがありサヨナラ勝ちしていた。結果は準決勝で日体大荏原に惜敗、しかし公立高校がベスト4に残ったのは快挙であった。コロナが無ければ当然神宮球場に行っているところだが孫曰く「神宮で思いきり打てて楽しかった」のひとこと。息子夫婦も子供の野球を応援して9年「これほど興奮した事はなかった」と語り私共高齢者夫婦も孫から最高のいい夏休みを貰ったと感謝。昨年7月の事であった。

▼まったくの独り言…‥コロナも第八波が襲来するか、昔「八波むと志」なるお笑いタレントがいて「脱線トリオ」というグループ。東北弁の由利徹、名古屋弁の南利明、東京言葉の八波むと志…由利徹の「チンチロリンのあっカックン」や「オシャ‥マンべー」面白かったな‥‥余計な独り言でした。

写真説明‥‥関東一高戦で勝ち越しタイムリーをうったときのtv映像

「頑張ろう21期」    21期 髙野 昇 2023年1月投稿 

21期生の髙野です。毎夏、発送されてくる「三商同窓会報」には一昨年、昨年と19期・20期の先輩諸兄の特集ページがありそれぞれの時代背景、校内の雰囲気など諸兄の心意気が拝読しながら伝わってきました。19期・20期ときたら今年は我々21期とおもいますが、同期諸兄、如何ですか。纏まったものを書くなどかしこまることなく「あの時、あいつとこんなことしてたなあ」とか登下校にみた風景、夫々のエピソード、先生との絆‥‥諸々なんでもいいので投稿してみたら如何なものでしょうか。手持ちの写真などは大歓迎されるでしょうね。

既に八十路の峠を越え語り合う仲間も少なくなりました。今年の「同窓会報」を盛り上げようと思う同輩諸兄、やってみましょう。

「あの時の文章を思い出します!!」    28期 若月健司 2023年1月投稿 

色々あった昨年の事件の中で大きいのは「安倍元首相の銃撃事件」です。それに伴って政治家と旧統一教会のつながりが日本の社会を混乱に陥れ、年が変わってもその影響は続くでしょう。新年に当たりふと思い出したのが数年前にある団体の会報に投稿した私の文章です。

~凡庸な悪が拡がっていないか?~

会長 若月健司

数年前に「凡庸な悪」という言葉を新聞などで知った時、なるほどなあと思いました。その時の事例としてナチスのユダヤ人大量虐殺の被告人であるアイヒマンが「上から言われたことをやっただけ」と述べたのです。これに対してハンナ・アーレントは巨悪は極悪人によってではなく、平凡な人間の「凡庸な悪」によって成されると指摘したのです。アイヒマンも家庭にあっては良き夫であり、良き父親で全く我々と同じ家庭人であったようです。

この言葉にぴったりと思われる事象が最近発生していると思うのは考えすぎでしょうか。そもそも「モリカケ事件」も安倍総理大臣の「私が関与していたら責任を取ります」と公言したことから財務省を始め自民・公明与党が忖度し、未だ解決に至っていません。公務員・議員も「安倍さんが責任を取るべき」と思っていても組織の一員に安住し、反論・諫言をしません。「桜を観る会事件」も同様です。明らかに税金を使っての有権者買収事件と思います。内閣府の公務員と野党議員とのヒヤリングでは公務員は板挟みの状態でしょう。彼らも家庭にあれば良き夫であり良き父親でしょう。

「投票率の低下」もいづれは民主主義を亡ぼす一因となります。自分1人ぐらい棄権してもということが「凡庸な悪」の始まりです。国民に範を示すべき総理大臣の行動がおかしいと言える人を期待するのは無理でしょうか。現在の状態が長く続くと「凡庸な悪」が「大きな悪」を呼び込むと予想するのはおかしいでしょうか。 以上。

この文章で連想するのが旧統一教会との接点を問われた議員が「そんな団体とは知らなかった」「旧統一教会の関連団体とは知らなかった」「選挙を手伝ってくれる有難い人」「頼まれれば祝電を打ったり挨拶も行う」等々、国政に携わる人間とは思えない回答振りです。中には「旧統一教会と接点があって何が問題ですか?」というのもありました。自分達の行動が旧統一教会の活動にお墨付きを与えている認識がまるでないのです。アイヒマンと同じとは言いたくありませんがその幼稚さに情けない心境です。

選挙事務所にはいろいろな人達が出入りします。「純粋に候補者を応援したい」「選挙活動マニア」「選挙活動が自己の仕事に役立つ」「議員から有力情報が得られる」「他候補からのスパイ」等、目的はそれぞれあります。従って候補者から見れば出入りする人の目的・経歴・能力などを把握するのは大事なことです。まして秘書や会計担当や幹部についてその身元を承知しておくのはいろはのいです。当然議員は旧統一教会の教義や合同結婚式や霊感商法などのことも承知していたと思います。

「自民党は旧統一教会との関係を断つ」と宣言し、問題はあるが「新法」も制定されたので今年から正常になることを期待します。 以上。

25 我が街 船橋を歩く―神社仏閣(23)龍神社(1)―         29期 仲田元昭   2023年1月投稿

戯言&独言27                                            21期 髙野 昇        2023年1月投稿

タイトルロゴ2022.06~年賀状に思う
戯言27

▼令和5年用の年賀状ハガキの発行枚数がおよそ16億4千枚と日本郵便が発表した。20年前は40億枚を超えていたのが幻のようである。スマホの普及が急速に広まり若い人を中心にメールやLINEを利用する人が増え、高齢者の間で「終活」が広がり「断捨離」も増え、それらが減少の背景にあるのは紛れもなく事実である。宛名や手書きを書くのが面倒だからやめるとの本音がありながら「終活・断捨離」の名を借りてのチャンスに乗じて「年賀状始末」をした人、する人が増加したのも確かだとも思う。そろそろやめたいと思う人が増えた来たのは事実。

▼今年も100枚以上の年賀状を有難くいただいた。こちらからの賀状に答えて頂けなかった方も数名あり来年からからは出さない事を基本にしている。全ての相手とやめてしまうのには抵抗があり私もその一人、年賀状は日本の文化であり、正月の気分を満喫でき、一枚も賀状が来ない正月など私には想像が出来ない。”誰とも繋がりがなくなり精神的にもポッカリと穴があいた状態に落ち込む”こと然り、そんな事など感じ得ない方々は義理張りだけの思いの賀状投函だと勝手に思ってしまう。義理だけの賀状は私は数年前から出しておらず相手もそう思っている感もありそれはそれで縁切れになっても動揺はない。「やめる・やめない」の選択ではく自身の人間関係を整理し、出したい人、出さなくていい人をキチンと選別し数年かけて減らしていくのも知恵の一つであろう。現役時代の仲間、世話になった方々、学生時代に楽しく過ごした仲間、同一趣味で知り合った友人など私の場合はこれが基本となっている。

戯言27-2

▼小学4年生から始めた友人とは今だに賀状のやり取りが續き、お互いに当時の俗称で書き始め、一言添え書きがあるのは喜ばしい。大事なことは、送る人への人間関係を大切に維持することであり年賀状はその手段のひとつでもある。賀状に「今年で賀状はやめます」のハガキには「数十年つづいた交誼はなんだったのか」と悲しい思いをするのは私だけだろうか。”あなたとの繋がりはこれで終わり宣言”はなんとも虚しい。

▼私は中学生のころから木版画を彫るのが好きで朴木の板にあの当時3本しか買えなかった彫刻刀で出来上がりは兎も角30年近く彫っていた。その後、プリントゴッコが出現しこんないい物が作られたことに感激し早速購入、その後パソコンを少しいじり始めた今はPC用のソフトからのアレンジ、創作した背景や自らの絵手紙風などからのデザイン、これが秋になると「ない頭」の楽しみのひとつである。

▼昨年も「喪中はがき」が10枚近くあり、郵便受けを開ける手もままならない12月だったが、「ああしたこうした」のLINEは見るがいつの日か「喪中LINE」なるもるが存在する時代になるのか考えさせられる。

戯言27-3

バナー広告(見本)

同窓会事務局案内

〒135-0046
東京都江東区牡丹1-12-8
         三商会館4階
  • TEL:03-3643-3392
  • FAX:03-3643-3396
ページの先頭へ